出エジプト記


 出エジプト記には、二つのことが書かれています。神がイスラエルの民をエジプトから救い出した事と(1~18章)、神が律法と幕屋を民に与えた事です。(19~40章)

1、派遣する神

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」(出エジプト3:10~12)

 飢饉で苦しんだヤコブの一族はエジプトに移住し、ヨセフの保護を受けました。430年の歳月が流れ(12:40)、イスラエルの民は奴隷に落ちぶれ、日々の苦役にあえいでいました。神はイスラエルの現状に目を留め(2:23)、救い出そうとされました。

神は、燃える芝の中でモーセに現れ、ご自分が誰かを知らせました。(3:1~6)
聖書の神は、派遣する神だ。神学者ジョン・ストットはそう指摘します。大きな問題が起きた時、誰かを遣わしてその問題を解決するのが神の方法です。
イスラエルの民をエジプトから救い出し、荒野の旅を安全に導き、約束の地まで連れて行く指導者として、神はモーセを選ばれました。

モーセは、自分の不完全さを自覚し、将来の困難も予想し、一度はその任を辞退します。けれども、神が共にいて下さるという励ましを受け(3:11~12)出て行きました。

今も、この現代社会で、神はモーセを必要としています。あなたは小さなモーセなのです。あなたのエジプトはどこですか。職場や学校や家庭など身近な場所かもしれません。あるいは、まだ見ぬ海外かもしれません。さあ、出ていきましょう。

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」と主はあなたに言っておられます。


2、救う神

 モーセは、イスラエルの民を開放するようにとエジプト王に迫りましたが、神からの災いが9回襲ってもパロはイスラエルの民を手放しませんでした。(7~10章)

 最後に国中の初子が打たれた時に、エジプト王はイスラエルの民が国を出ることを許可しました。イスラエルの民は、主に命じられたとおりに子羊の血を門柱と鴨居に塗ったので、神のさばきは<過ぎ越し>ました。(12~13章)
過ぎ越しの出来事は、主イエスによる救いを予告しています。主イエスは、文字通り「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)なのです。主イエスが十字架で死なれた時が過ぎ越しの祭りであったのは偶然ではありません。

イスラエルの民は、エジプトを出て荒野を目指ししましたが、海が行く手を阻みました。後ろからエジプト軍が迫った時、人々は恐れました。(14:10)

それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(出エジプト14:13~14)

モーセが杖を指し伸ばすと、強い東風が吹いて水は両側で壁となり、イスラエルの民は乾いた海底を歩いて渡りきりました。(14:21~22)
 
 今、あなたに救いが必要ですか。
 あらゆる努力をしても道が開けず、目の前には壁がある。そんな時は神の助けを求めましょう。聖書が語る生ける神は、救う神です。神に信頼しましょう。主があなたがたのために戦ってくださいます。神の救いを信じましょう。神は海を分けてでもイスラエルの民を救う方なのです。



3、律法と幕屋

 出エジプト記の後半部分は、律法と幕屋について書かれてあります。19~24章は律法。25~40章は幕屋についてです。

神は、イスラエルの民を海沿いの道という最短ルートではなく(13:17)、荒野のシナイ山に導かれました。それは、奴隷根性の染み付いたイスラエルの烏合の衆を<神の民>へと変える意識革命と生活訓練が必要だったからです。

アメリカンフットボールにたとえるなら、イスラエルの民が選手たちで、モーセがクォーターバックです。目指すはスーパーボウル出場ですが、イスラエルの民は全員が初心者なので、試合のルールを教え、基礎体力を付けさせ、練習を重ねる必要があります。それが、律法と幕屋が果たした役割です。

私たちにとっての「出エジプト」は、回心とバプテスマです。律法は、クリスチャンとして歩むために必要な信仰生活の学びや訓練。幕屋は、日曜礼拝をライフスタイルの中心に置く事です。

律法は19~24章に書かれています。ユダヤ人は、神が与えた律法は聖書全体で613あると理解しています。信仰や道徳に関する教えだけでなく、儀式や食べ物に関する規定も含まれます。その中心にある十戒(20:1~17)は、神だけを礼拝し、偶像を作らず、安息日を守り、親を敬い、殺人や盗みをせず嘘をつかないという規定です。

律法の多くは、禁止事項を短文で明瞭に教えています。それは、高圧電線のそばの看板に、<危険!触るな>と書くのと同じ理屈です。触れれば死です。律法は、民の命を守り、危害から守るためにあります。

20~24章は現在の刑法や民法に相当する内容で、私が数えたところ50以上の規定がありました。例えば、殺人者は死刑(21:12)、過失の場合は「逃れの町」に逃げ込めば罪に問われない(21:13)。誰かが悪意を持って他人の目を傷つけたら、その犯人は同じ傷を受けなければならない(21:24~25)。牛を盗んで殺したら、牛5頭で償う(22:1)。
注目すべきことに、損賠賠償の方法が多数書かれています。人間の失敗を予見し、人生のやり直しを励ますのも律法なのです。

人が罪を犯した場合、被害者への償いだけでなく、神の赦しを受ける必要があります。罪を犯した者は、羊や牛の上に手を置いて自分の罪を告白し、その動物がほふられ、焼かれます。それを行う場所、神を礼拝する場所が幕屋なのです。

25~31章に幕屋の設計図、35~40章には幕屋作成の様子が書かれてあり、両者の内容は重複しています。(幕屋での儀式の詳細はレビ記で触れます)

また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。
(出エジプト記40:33~38)

エジプトを出て丸一年たった日に(40:17)幕屋が完成し、神の栄光が満ち、神の臨在の印の雲が幕屋の上に立ち上りました。

私たちは、主イエスによって救われ、律法と幕屋によって神の民へと形作られます。

 →あなたの番です
  □まことの神は、あなたを救います
  □あなたは小さなモーセです、さあ遣わされて行きましょう
  □神の民となるため、聖書を学び、礼拝を中心に据えましょう