レビ記


 礼拝と聖さ。
 レビ記はこの二つを教えてくれます。

1、礼拝

レビ記は、祭司のための奉仕手順を記したマニュアルと言っても良いでしょう。

もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。(レビ記1:3~5)

 「その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く」とあります。礼拝者は、欠陥のない動物を選び、幕屋の庭に連れて行き、手を動物の頭の上に乗せます。これは、動物が彼の身代わりだという意味です。彼の罪を動物に転嫁する行為でもあります。
 礼拝者自身が刃物を使って動物を殺します。あふれ出る血潮を見て、手に残る血の生温かい感触を無視して冷酷に動物をほふることは不可能です。
 祭司がその後の処置を引き継ぎ、すべての血を祭壇に注ぎ出し、焼きます。全焼のいけにえは、動物を焼き尽くします。罪のいけにえは、汚物を処理するように、宿営の外で焼きます。穀物のいけにえは、一つかみを焼いただけで、残りが祭司の糧になります。和解のいけにえの場合は、礼拝者と家族らが感謝と喜びのうちに食します。
 
 レビ記1章から7章に説明されているいけにえは、以下の5種です。

①全焼のいけにえ     
②穀物のいけにえ     
③和解のいけにえ     
④罪のためのいけにえ          
⑤罪過のためのいけにえ       

神の民とは、何でしょう。それは。礼拝する民です。

あなたが、「日曜は礼拝に行きます」と誰かに言うなら、聞いた人がクリスチャンでないなら驚きますし、ショックを受けるはずです。礼拝する民は、世界の人々に神を指し示しているのです。

動物のいけにえを捧げる姿を見ると、今日の私たちと随分違うと感じます。イスラエルの人々は、自分のすべてを捧げる決意を持って、いけにえを連れて行き、全焼のいけにえをささげます。あるいは、神から受けた恵みに感謝するための「和解のいけにえ」を連れて行きます。時によっては、自分が犯した罪を心の中に携えた上で、動物を連れて行くこともありあります。

イスラエルの人々は何かを持って礼拝に行くのです。献身の決意、感謝の思い、罪を悔いた心、などを携えて礼拝に行きました。現代の私たちは、何も持たずに礼拝に行き、お話を聞いて終わりです。イスラエルの人々は、動物に手を置いたり、ほふったり、します。

現代の私たちは何も持たずに礼拝を後にします。イスラエルの人々は、自分を神におささげした決意を持ち帰ります。食事を神と共にした喜びや満腹感を持って帰ります。罪がゆるされたという祭司の宣告を聞き、平安の内に帰ります。「どのことについても赦される」(6:7)からです。

レビ記の礼拝者の姿を見て、自分の礼拝姿勢を正しましょう。何かを持って、礼拝に出か、それをおささげしましょう。


2、聖い生活

神の民はどこに特徴があるのでしょう。それは聖さです。レビ記に「聖」という言葉が何回使われているか、私は数えてみましたが、140箇所は確実にありました。レビ記は、聖く歩むことを教えてくれる書です。

大学時代、クラスメートに代返を頼まれた時に私は断りました。すると「どうして?」と聞かれたので、「僕はクリスチャンだから嘘をつきたくない」と答えました。結局、空き時間に図書館で救いのあかしをすることになりました。主イエスと共に歩くと、人と違う部分が出てきますが、それで良いのです。

イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。(レビ記19:2)

あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行なわれていた忌みきらうべき風習を決して行なわないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ記18:30)

「わたしが聖であるから」(19:2)との言葉は、11:44、11:45、20:26でも繰り返されます。まことの神は、聖い神です。だから、私たちも聖い歩みをするのです。それで、何をすることが聖いのかがレビ記に詳細に書いてあります。彼らが入って行くカナンの地には、堕落した道徳倫理がはびこっていたのです。だから、そうした人々の風習を真似てはいけないのです。

 殺すな盗むなという倫理基準だけでなく、生活全般の聖さが書いてあるのがレビ記の特徴です。住居が劣悪で、衛生環境の悪い生活にさらされ、悪い食べ物を毎日食べて、良い心を維持するのは困難なことです。生活全般も聖くする必要があるのです。

それで、何を食べたら安全で食中毒の危険はどんな食物にあるか(11章前半)、死体の取扱い注意(11章後半)、伝染病者の診断・隔離・回復(13、14章)、農地を休ます事(25章)、性道徳(18章)、偶像礼拝の禁止(20章)、貧者と富者の差を縮める政策(25章)、在留異国人の保護(25章)、障がい者の保護などが書かれています。

 チックフィレイというファーストフード屋さんは日曜日が定休日です。創業者がクリスチャンで、日曜日には自分も従業員も礼拝に出られるようにと考えたのです。まさに、レビ記が教えるように、礼拝する民です。
 2014年の1月、普段雪の降らないアラバマ州ビルミングハムで大雪になり、フリーウエイ280の一部が閉鎖され人々が夜になっても車で缶詰になりました。チックフィレイのオーナー店長マーク・メドーズさんは、無料で食べ物を配布し多くの人に喜ばれました。利益を生むことが第一ではなく、人々を愛し、人々に仕えることが私たちの会社のモットーですとマークさんはインタビューに応えました。

 礼拝する民は、神の姿に変えられ、社会の中で聖く歩みます。聖さとは、心が聖いだけでなく、その聖さが生活全体ににじみ出るものです。
 パウロがローマ書で述べたことは、レビ記の中心思想を見事に要約しています。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ12:1~2)

何かを携え持って礼拝に行きましょう。そして、今週、聖く歩んでみましょう。

→あなたの番です
 □何かを持って、礼拝に行く
 □聖く生きてみる