トマスのイースター  ヨハネ20:24~29


 イースターおめでとうございます。主イエスは復活されました。
宇宙から特殊カメラで撮影できるなら、野球観戦のウェーブのように復活を喜ぶハレルヤのウェーブがイースターのこの日に地球を一周したはずです。

1、信じません

 子供に人気の絵本シリーズ「機関車トーマス」をご存じですか。イギリスのオードリー牧師がストーリーを書きました。いたずら好きで、たびたび失敗するのが主人公の機関車トーマスです。トーマスとは日本語にすればトマスです。
 さて、聖書のトマスはどんな人なのでしょう。

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。(ヨハネ20:19~20)

イースターの早朝、女たちが復活の主イエスに会ったという話を聞きましたが、十二弟子は懐疑的でした。その日の夕刻、十二弟子が集まっていると部屋に主イエスが突然現れました。主イエスは十二弟子に語り掛け、十字架の傷跡も見せてくれました。十二弟子は悲しみと不安から、喜びと賛美に変わりました。トマスはそこにいませんでした。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。(ヨハネ20:24)

トマスはその日遅くやって来ました。皆は大喜びでしたが、自分だけ電車に乗り遅れてしまいました。

それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。(20:25)

自分だけが除外されたと思い込んだトマスは、主イエスの傷跡をこの眼で見なければ決して信じないと態度を硬化させました。本心は「信じたい」のですが、「決して信じません」と言ってしまいました。人間とはそういうものです。
トマスは、ただの疑い深い人なのでしょうか。

ヨハネ11:14~16を見るとトマスの人柄が推測できます。主イエスや十二弟子と親しかったラザロが死んで、主イエスは彼のところに行こうと言われました。トマスはその言葉を聞いて、イエスさまはラザロのように死ぬおつもりだと早合点し、私たちも行って死のうではないかと発言しました。トマスは主イエスと共に死ぬ覚悟をした一途な人だったのです。イースターの日も十二弟子と行動を別にしたのは、彼が死に場所を探していたという可能性が高いのです。

あなたは、トマスに似ていますか。


2、私の主

八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」(26~28節)

 トマスは、決して信じないと発言した後、誠実な求道者になって十二弟子と共に1週間を過ごしたようです。一週間後、主イエスは再び十二弟子の前に現れて下さいました。主イエスはトマスのために来て下さいました。

トマスよ。わたしはあなたを知っている。あなたの発言の真意も分かっている。あなたは人一倍純粋で、一途で、情が深い。わたしと共に死ぬ覚悟があることも知っている。あなたがわたしに会いたかったように、わたしもあなたに会いたかった。主イエスは、存在でトマスに愛を伝えました。

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい」(27節)と主イエスはトマスに言われましたが、トマスは手を入れて傷跡の検証はしませんでした。復活し、トマスのために現れたイエスの愛に心を激しく揺さぶられたのです。

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい」という言葉を聞いて、主イエスは私の心の動揺も、行き過ぎた言葉も、知っておられるとトマスには分かりました。主イエスの手の傷跡は、私の罪のために十字架にかかられた印。私のためにだけに姿を見せて下さった主。私のため。私のため。すべてが私のため。それが分かったトマスは、「私の主。私の神」(28節)と心から告白できました。

「私の主。私の神」という言葉には、懐疑心の悔い改めが含まれています。借り物の信仰ではなく、自分自身の心の底からの信仰告白です。「一緒に死にます」という一時の感情の高まりではなく、生涯イエスを自分の主として献身しますという真摯な決断が現れています。

主イエスは、あなたの主です。あなたは、どんな献身を表しますか。


3、見ずに信じる

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(20:29)

主イエスはトマスに、きっぱりとアドバイスしました。「見ずに信じる者は幸いです。」幸いですというフレーズは山上の垂訓で有名です。主イエスが復活後に「幸いです」と言われたのはここだけです。本当に幸いなのは、手の傷跡を検証せずに、見ずに信じることなのです。

自分の目で見るまで信じないという態度は間違っています。十字架で死んだ後に復活すると主イエスは予告されましたが、その約束を信じれば良かったのです。それが見ずに信じることです。また、仲間であり、信頼できる十二弟子の証言を聞いた時、そのままを受け入れて信じればよかったのです。それが見ずに信じることです。

クリスチャンのあなたが、大きな試練に出会ったり、ひどい病気や痛みに直面したり、死が近いと感じる時に、信仰がゆらぐことがあるかもしれません。
その時は、今日の箇所を思い出して下さい。トマスのようになるなと主イエスは言っておられます。復活の主を信じるに十分な材料はすべて聖書に提供されています。見ずに信じるとは、聖書を信じるということです。ペテロも以下のような言いました。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
(第一ペテロ1:8~9)

主イエスはよみがえられました。あなたの罪は完全に赦されました。主イエスは今も生きていて、あなたを励まし、あなたに永遠の命を約束されました。あなたも信じましょう。見ずに信じることは幸いなのです。

「信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」(20:27)


→あなたの番です □見ないで信じる