エゼキエル書


 預言者エゼキエルは、神に示された幻をテレビの現場レポーターのように生き生きと語りました。

1、バビロンで

カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。(エゼキエル書1:3)

祭司エゼキエルはBC597年、エホヤキン王と一緒に、約1万人の捕囚の一人としてバビロンに連れて行かれました。(1:2~3)その後5年たった頃、エゼキエルは預言者として召されました。大先輩のエレミヤがエルサレムで活躍し、同時期に、若きエゼキエルが異国バビロニア帝国で神の言葉を語ったのです。
ユーフラテス川の運河をケバル川といいますが全長100キロもある大運河で、その近くにユダヤ人居留地テル・アビブ(3:15)にエゼキエルは住んでいました。(イスラエルのテル・アビブは、1900年代初頭に作られた町です)

イザヤが預言者になった時もケルビムを見ましたが、エゼキエルも空飛ぶケルビムに圧倒され(1:4~25)、サファイヤのような王座と雲間に輝く虹のような主の栄光を見ました。(1:26、28)

エゼキエルは文書よりも映像の人です。ケルビム、神の栄光、偶像を拝む長老たちの姿、骨の再生、新しい神殿など、見主に見せられた幻を何回も書いています。

主はエゼキエルに、「反逆の家」に遣わすのだから「彼らが聞いても、聞かなくても」(2:5)神の言葉を語るように主に言われました。
神に立ち返れ、さもなくば滅びる。それがエゼキエルの初期のメッセージです。エゼキエルは主に命じられて行動でも神の警告を伝えました。左脇を下にして30日横たわったり(4:4~5)、菓子を牛の糞で焼いり(4:15)、おびえて水を飲んだり、壁に穴を開けて荷物を背負って逃げたり(12:5~7)、妻が死んでも喪に服さなかったり(24:16~18)などのエルサレム崩壊の姿を先取りして人々に伝えました。
11:22~23においては、神の栄光が神殿から去り、東の山のほうに移動する光景をエゼキエルは目撃しています。

エゼキエルの努力もむなしく、BC586年エルサレムは滅ぼされました。(33:21)


2、悪者の死を望まない

 それでは、神はエルサレムが滅びることを喜んでおられたのでしょうか。違います。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(18:23)

あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――
だから、悔い改めて、生きよ。(18:31~32)

悪者が死ぬとほっとする。それが一般人の正直な感想です。主のお考えは違います。悪者の死を望まないのです。「なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。」「悔い改めて、生きよ。」エゼキエル書の根底に流れる神の心は、悪者よ死ぬな、罪人よ滅びるな、です。

南米エクラドルの東、アマゾン川源流に住むワオラニ族に主イエスの福音を届けたい、自分の言葉で聖書を読めるように援助したい、そう願う若い5人の宣教師が1956年1月8日、彼らの毒槍で殺されました。外部の人間は自分達を殺して食べる種族だと思い込んでいたワオラニ族の人は常に好戦的でした。
レイチェル・セイントはこの事件で弟を失いましたが、彼女自身がワオラニ族に伝えたいと言葉を学び、仲間と村に入り、20年間そこで暮らし、彼らの言語に聖書を翻訳しました。主イエスを信じた村人は穏やかになり生活態度が一変しました。

あなたにとって「悪者」とは誰ですか。主は、悪者の死を願いません。あなたは、「悪者」のために何ができますか。<神は人の心を新しくできる>これは、エゼキエル書が何度も語る大事なテーマです。

 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。
(36:26~27)

 神は人の心の中心に新しい霊を下さる方です。石のように硬い心を持つ「鉄面皮」(3:7)であっても、神は新しい命、新しい霊を私たちの内部に作って下さいます。干からびた骨になっても、神は命を再び与えることのできる方です。(37:1~14)

 柔らかい心、低い心になって、神の前に出ましょう。神は、悪者の心も変えてくれます。私たち自身の心も新しくしてくれます。


3、新しい神殿

 40章から48章までのテーマは神殿です。エルサレム神殿はすでに滅ぼされていましたが、神はエゼキエルに神殿の回復を約束し、新しい神殿を幻の中で見せてくれました。エゼキエルは、完成した神殿を歩くようなアリティーを感じました。各部分の寸法も分かりました。神の栄光は神殿に戻っていました。(41:4~5)
 エルサレムは山の頂上にある町ですから、神殿から泉が湧くはずはありませんが、確かに神殿の祭壇から水が流れていました。

 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。(47:1)

神殿から流れる水は、約500m進むと足首くらいの深さになり、ひざの深さ、腰まで、さらに行くと泳げる大河になりました。(47:3~5)この川は山岳地帯から東のヨルダン渓谷に下り、やがて海(死海)に届きます。すると、水質が変わり魚が住めるようになります。川の両岸は素晴らしい果樹園になります。

この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。(47:9)

これは何を意味しているのでしょう。主を礼拝する人が、神殿から出て行く光景です。私にはそう見えます。礼拝した人々が、周囲の人に愛を届け、正義を示し、喜びを与え、まわりの人に命が与えられます。

 ところで、イエスさまの時代になると、この神殿から流れる川をイメージした行事が実施されていました。秋の祭り、仮庵の祭りの最終日、大勢の祭司たちがシロアムの池で水を汲み、歩いて神殿まで運び、次々と祭壇に水を注ぐ儀式です。それは、エゼキエルの預言の成就を願う儀式です。その場面で、主イエスはこう語られました。
 
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)

主イエスを信じた人の心には泉がわき出るのです。生ける水の川です。その水は、主イエスを信じた人に命を与えます。また、主イエスを信じた人が周囲の人に潤いを与える人になります。

『クレージーラブ』という本を書いたフランシス・チャン牧師は、こういう礼拝をするそうです。賛美は10分、聖書の話は10分、それで終わり。数百名の礼拝者は、出かけていって、誰かを愛したり助けたり、耳を傾けたり、主イエスを伝えて数時間を過ごし、また教会に戻って恵みを分かち合う。

聞くだけでは何も変わりません。今週、行動してみましょう。あなたが行く所、あなたがいる場所で、あなたが「川」になりましょう。周囲の人を潤しましょう。あなたの心に流れ始めた命の川は、誰かに注がれるためにあるのです。

「この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」

 →あなたの番です
  □神は悪者の死を喜ばない。死ぬな!生きよ!
  □礼拝者のあなたが行動し、周囲の人を生かそう