哀歌


 エルサレムの滅びを記録したのが哀歌です。

1、滅びと苦悩

ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。(哀歌1:1)

 エルサレムは紀元前586年に滅びました。バビロニア軍に包囲され、食料が途絶えた頃に総攻撃をかけられ、多くの人が殺され、神殿は破壊され、町に火が放たれ、城壁が崩され、生き残った人々はバビロン捕囚として遠く異国へと移されました。
 その日を「最も悲しい日」としてユダヤ人は今も忘れません。「美の極みと言われた町」(2:15)、エルサレムは廃墟となり、かつての栄光は去りました。

彼女の仇がかしらとなり、彼女の敵が栄えている。彼女の多くのそむきの罪のために、主が彼女を悩ましたのだ。彼女の幼子たちも、仇によってとりことなって行った。(1:5)

「多くのそむきの罪のため」(5節)とあるように、滅びの原因は自分たちの罪にあるとユダヤ人は理解しました。哀歌は悔い改めに満ちています。先祖の罪、指導者の罪、自分の罪を何度も認めています。

主は正義を行なわれる。しかし、私は主の命令に逆らった。(1:18)
ああ、私たちにわざわいあれ、私たちが罪を犯したからです。(5:16)

エルサレム崩壊の出来事は、神がどんな方かを教えてくれます。神は予告されたら実行します。この事実は、世の終わりの最終的裁きは必ず来るという警告でもあります。

主は企てたことを行ない、昔から告げておいたみことばを成し遂げられた。滅ぼして、容赦せず、あなたのことで敵を喜ばせ、あなたの仇の角を高く上げられた。(2:17)

哀歌にはエルサレムが包囲された時の悲惨さが書いてあります。かわいそうなのは子供たちでした、食べ物がないのです。(4:4)赤ちゃんを持つ母親は、その子を煮て食べました。(2:20、4:10)戦後の混乱時に、女性たちはバビロン兵によって辱めを受けました。(5:11)

私の目は涙でつぶれ、私のはらわたは煮え返り、私の肝は、私の民の娘の傷を見て、地に注ぎ出された。幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。(2:11)

残された人は、川のように涙を流すしかありませんでした。

ところで哀歌は独特な文学形式を採用しています。ヘブル語本文で、1章、2章、3章、4章がアルファベットのアクロステックで書かれています。1ユニットの冒頭が英語でいえばA、次の文頭にB、次がCとなっています。5章は、ヘブル語のアルファベットの数である22節で終わっています。
たとえば、ドレミの歌の一部にアクロステック的手法が使われています。「んなときにも、つを組んで、んな楽しく、ファイトをもって」哀歌3章は特に手が込んでいて、3行のユニットの冒頭全部が同じアルファベットになっています。
『日曜大工のA to Z』という本があれば、それは日曜大工のすべてという意味です。エルサレム崩壊にともなう悲惨のA to Z、すべての悲しみを書き出した。それが哀歌なのです。

悲惨な事実をありのままに書く。悲しみとうめきと疑問のすべて書き尽くす。哀歌そのものをエルサレム崩壊の記念碑にしたのです。
すべて書く。そこには、悲しみを過去にする姿勢がみられます。すべて書き終える。そこに、前進しようという意志が感じられます。事実、ユダヤ人は、ユダヤ陥落の日を記念して嘆きの壁で今も悲しみますが、神殿再建を同時に祈っています。

あなたは大きな災難や苦悩の日々を経験しましたか。あなたの哀歌を書くことが過去の整理になります。未来への一歩ともなります。あなたの哀歌を書きましょう。


2、神のあわれみは尽きない

 1~5章はアルファベットの数のとおりに22節で終わっていますが、3章だけが3倍の66節になっています。内容的にも一番大事な章です。

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
(3:22~24)

廃墟を見る。それは、悲しく辛くみじめな経験です。けれども、生き残った人だけが廃墟を見るのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。」この恵みとは、神の愛とも訳せる「ヘセド」という言葉です。滅びなかったのは神の愛があるからです。

主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
(3:25~33)

25~33節は、そのまま味わいましょう。苦しみの中に希望があります。

ところで、脳の機能解明が進んでいなかった1953年、野蛮な手術が行われました。頻発するてんかん発作の治療のため脳の一部を切除したのです。発作は直りましたが、その人の11年分の記憶が失われました。
あなたの悲しみの記憶を外科手術で消せるかもしれませんが、消してもいいですか。たとえ痛みの記憶でも、それはあなたの一部です。あなたの優しさは、痛みを経験したから身に付いたはずです。涙を知っている人だから、優しくなれたのです。

私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。
私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。(3:40~41)

今、あなたは廃墟を見て意気消沈しているかもしれません。主に立ち返りましょう。主に心を向けましょう。主を信頼しましょう。身近な人を愛しましょう。

 →あなたの番です
  □自分の哀歌を書いてみよう
  □廃墟に立てるのは、生かされているから
  □主を信頼しつつ、誰かに優しくしよう