コリント人への手紙第二


 「あー、本当に良かった。ほっとしたよ。主は素晴らしい。嬉しくて飛び上がりたい」コリント人への手紙第二を書いた当時のパウロは気持ちが高揚していました。パウロは、コリント教会に宛てて書いた厳しい手紙(2:4)の反応が心配だったのです。コリントから戻って来たテトスの報告を聞いてパウロは胸を撫でおろしたのです。罪を犯していた人が悔い改め(7:9~11)、パウロに対するコリント教会の信頼感が回復したようです。
 「それからね、コリント訪問の日程はこういう予定で(1:15~16)、エルサレム教会への献金はしっかり集めておいてほしい。(8~9章)それから………」という雰囲気で手紙は進むので、この手紙のアウトラインはちょっとつかみにくいのです。


1、慰めの神

 この手紙のキーワードは「慰め」です。

 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(コリント人への手紙第二1:3~4)

 「慰めの神」と書いてあります。神を単なる力やエネルギーや法則と考える人がいますが間違っています。力や法則は人を慰めることはできません。本当の神は人格を持つ神なので、私たちの話に耳を傾け、心の深い部分まで分かってくれるのです。

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」なぜそう言えるのでしょう。神だから、どんな苦しみの中にいる人も慰めることができるのです。

 大学生のサラは、ソフトボールの試合で生まれて初めてホームランを打ちましたが、一塁ベースを回る時に膝を痛めて倒れ込んでしまいました。チームメートが助けようとするとコーチと審判が「触るな」と言いました。ルールブックによると、そんな時に触れたなら選手はアウトになりホームランは無効になるのです。痛みのため動けないサラは、自分を責め、みじめな自分を恥じていたことでしょう。
 それを見て、敵側の一塁手と二塁手がサラを持ち上げて塁を回ると提案し、審判もOKを出し、無事ホームを踏めました。サラはどんなに感謝したか分かりません。この経験を経て、サラは誰かを慰めて助ける人になったことでしょう。

 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。(1:6)

 今、あなたはトラブルの真っ只中かもしれませんが、神は必ずあなたを慰めることができます。そしてあなたは、いつか、誰かを慰める人になります。


2、点と線

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(5:17)

 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(3:18)

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(4:16)

 パウロは、第二の手紙において「肉に属する人」という話題を出しませんでした。むしろ、主イエスを信じた者は新しく造られた、という事実を指摘しました。新しく造られたら「はい、終了」ではなく、日々、どんどん新しくされるのだと教えました。

 主イエスが私たちに与えてくれた救いは、「点」と「線」です。罪人が主イエスの十字架により義と認められたことは「点」です。クリスチャンが聖霊によって日々キリストの姿に似た者と変えられるプロセスは「線」です。

 ロバートさんは占領軍の一員として沖縄の基地で働いていた時に、愛用の万年筆を無くしました。オフィス内で働く日本人男性の胸ポケットにその万年筆を見つけたので、厳しく問いつめて取り返しました。それから3週間後、ロバートさんは自宅で彼の万年筆を見つけました。取り上げた万年筆と比べると模様がわずかに異なっていました。その日本人は誠実な人柄だったことを思い出しました。ロバートさんは彼を探して謝罪したいと思いながら、それができずにアメリカに帰ってしまいました。それは生涯の悔いとなりました。

 私たちも、ロバートさんを責められません。同じことをしているので自分に嫌気をさすことがあります。生まれ変われたらな、と思うものです。
 主イエスを信じるな、主イエスの内にあるなら、私たちは新しく造られたのです。そして、日々新たにされるのです。ここに慰めと喜びがあるのです。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」


3、弱さが力に

 異例ともいえますが、パウロはこの手紙でかなり個人的な事柄を書きました。伝道者として、迫害に遭い、鞭打たれ、投獄され、命の危険を何度も経験したと語りました。(11:24~27)
 さらにパウロは、14年前の特殊な体験も話しました。(12:2~5)天に引き上げられ、パラダイスで神と間近に接した経験をしました。
 キリストのための苦難の傷跡。神を身近に感じた栄光の出来事。その二つは、信仰者の勲章のようなものですが、パウロは誇れるものはそれではなく、弱さだと言いました。

また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(12:7~9)

 人の病をいやしてきたパウロなのに、自分の病=「肉体のとげ」をいやせない。その弱さの中で神の恵みに気づきました。弱さゆえに、神の力を体験しました。・

 あなたに弱さがありますか。
 あなたの弱さは何ですか。

生まれた家庭環境、人に言えない失敗や罪、誰かをひどく傷つけたこと、生まれついてのハンディー、深刻な病、災難に遭ったこと、今も解決しない深刻な問題、もつれたままの人間関係。それらの弱さは、神の恵みが注がれるための一口です。
弱さがあるから、あなたは謙虚になれます。弱さがあるので、神に祈れます。弱さゆえに、神の栄光を体験できます。弱さがなければ、傲慢で、人に共感できない、嫌な人になっています。

 つとむ君は、メキシコ系アメリカ兵士と沖縄の女性の間に生まれたハーフでした。生まれてすぐ医療事故で全盲になり、彼が1歳の時に両親は離婚、父はアメリカに帰還、祖母のもとで育てられましたが、彼が中学の時にその祖母も死去。人生を悲観し、井戸に飛び降りようとしたこともありました。
 そんな時に一人の牧師さんに出会いましたい。僕ほど不幸な人間はいない、目は見えない、混血児で差別される、父も母も大嫌いだ、生きる意味がない。牧師さんは、涙を流しながら親身に聞いてくれて、それ以降は家に招いて食事をご馳走してくれたり様々な世話をやいてくれて、勉君もクリスチャンになり新しく造られました。
 歌の好きな、新垣勉君さんは著名なボイストレーナーのオーディションを受ける機会があり、「君の声は日本人離れした明るい声を持っている。ラテン系のお父さんのおかげだね。その声で多くの人を励ますんんだ。」と励ましを受けました。新垣勉さんは、テノール歌手として活躍しています。弱さは力になりました。

あなたの弱さは、あなたが一番嫌うものです。けれども、弱さの中に神の恵みが染み込んでいます。弱さの中に神の力が現れます。あなたは、それを信じますか。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 →あなたの番です
  □まことの神は、慰めの神
  □私たちは、新しく造られ、日々変えられる
  □弱さの中にこそ、神の恵みと力あり