ガラテヤ人への手紙


 パウロがガラテヤ地方で伝道した後、ユダヤ人クリスチャンがやって来てパウロと違うことを教えました。信仰だけでは不十分だ、律法を行いなさいと教えたのです。パウロはそれを聞いて怒りました。それは福音ではない、主イエスの十字架を台無しにすると厳しく批判しました。それがガラテヤ人への手紙の中心テーマです。



1、律法主義への防波堤、パウロ

 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。(1:13~14)

 パウロは、優秀な律法学者であり、律法の実践に熱心な行動派で、キリスト教徒迫害の先頭に立ちました。ダマスコ途上で復活の主イエスに出会って、パウロは劇的にクリスチャンになりました。「生まれたときから選び分け」られたとパウロは述懐しています。

 この手紙でパウロは、福音を人間から聞かなかったし(1:12)、また、人間によって使徒に任命されたわけでもない(1:1)と証言しました。つまり、主イエスによって、直接福音を聞き、また、主イエスにより使徒の任命を受けたのです。十二弟子とパウロは、明らかに別ルートですが、両者の福音理解は同じでした。

 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(2:16)

福音は道徳に変質しやすいので、福音になにかを付け加えてはいけないのです。福音の本質は、主イエスを信じるだけで罪から救われることです。
救いについて言えば、良い行いや律法は救いに何の関係もありません。クリスチャンになった後について言えば、割礼を受けたり、ユダヤ人の生活習慣を守る必要はないのです。

 パウロは、律法学者として歩んだ彼の経歴は、福音の真理を守るためだったのだと分かりました。
 私たちも主イエスに出会って初めて、自分とは誰なのかが分かります。物事の本質、自分のアイデンティティーが見えてきます。あなたは主に選ばれ、主に召されてたのです。あなたが通った回り道は、主イエスと出会うことにより納得できるようになります。



2、無価値な律法主義

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(3:1~3)

ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。(4:9)

 律法の空しさを最も自覚していたのはパウロでした。律法は、無力、無価値、幼稚な教えなのです。
 律法主義は、まじめな人や年長者が陥りやすい罠です。少しでも律法を守れると傲慢になり、守っていない人を見つけると裁きます。
 
 あなたは、最近、誰かを裁いていませんか。たいていは、自分が疲れたとき、ストレスの強いとき、為すべき事ができてない時など、人を裁きます。
 人をさばくのは止めましょう。むしろ、人の良い点を見つけて、ほめてあげましょう。

 

3、救われた人の生き方

 福音を知り、主イエスを信じた人は、三位一体の神と繋がりながら歩むようになります。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。(4:6~7)

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(2:20)

 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(5:16)

 アバとは、幼児がお父さんを呼ぶ時の言葉です。主イエスを信じた者は神の子になったので「アバ、父」と父なる神を呼べるようになります。
 主イエスを信じると、古い人は十字架で死に、キリストが私たちの内に生きるようになります。
 主イエスを信じると御霊が私たちの内に住んで下さいます。だから、御霊の導きを求めつつ歩むことができます。

この3つの聖句を読んで、あなたも気がつきましたね。信仰生活とは、神とのリレイションシップに生きる生活なのです。律法ではなく、御霊に導かれて生きるなら、御霊の実を結びます。その人の人格に素晴らしい変化が生まれます。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(5:22~25)

ある田舎の小学校での出来事です。傘が木に引っかかっている、という連絡がありました。傘は小学1年の女の子のものでした。学校側はその子の自宅に連絡しておきました。しばらくすると、女の子のお父さんから電話が学校にありました。アクシデントで傘が引っかかったのではなく、女の子が傘をかけたのだといいます。その木にかわいい実がなっていて、雨が降って来たので濡れないようにと傘をかけたのだといいます。もしかしたら、その子は雨に濡れて帰ったのかもしれませんね。

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意などの品性の実を結んで、ほめられたい、自慢したい、クリスチャンとして一人前になりたいと思うなら、動機が不純です。身近な人の笑顔が見たいと思う時、内面が成長します。雨に濡れないようにと傘をさしてあげる人の心に、自然に、御霊の実が結ぶのです。

 福音に律法主義を付け加えてはいけません。律法主義は、空しく、傲慢や差別や争いを生みます。人を裁いても何も良いものは生まれません。
 御霊に導かれて生きるなら、他者への愛や寛容や親切が自然に生まれます。


 →あなたの番です
  □主イエスと出会うと、本質が見えてくる
  □律法的生き方を止めよう
  □御霊の実を結ぼう