ローマ人への手紙


 パウロが第3回伝道旅行で訪れたコリントにおいて、紀元57年頃、ローマに住むクリスチャンに宛てて書いた手紙がローマ人への手紙です。パウロの主著と呼べる論文で、キーワードは「義」です。

パウロは、ローマ人への手紙1~11章の部分で、十字架の意味を解説し、救いとは何かを明らかにしました。パウロは、主イエスの十字架という歴史的出来事の意味を解説できる神学者であり、教師なのです。
12~16章で、クリスチャンはどう生きたらよいのかを具体的に語りました。つまり、パウロはコーチ、メンターなのです。
さらにパウロは伝道者です。ローマを訪れた後にイスパニヤ(現在のスペイン)で伝道したいという願いを15:28に明記しています。
パウロは、神学者、メンター、伝道者として主に召されたのです。


1、罪
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。(ローマ人への手紙1:20~21)

驚くことに、99%までロボット化された自動車工場があります。その一連の工程を見て、「偶然とはすごいもんだ」と感心する人はいません。誰かが工作ロボットを作り、誰かがプログラムしたことは一目瞭然です。
次に、私たちの体の中で起きているたんぱく質合成を考えて下さい。DNAは細胞の核内に厳重に保管され、たんぱく質合成の必要があるときはRNAにコピーされ、厳重に編集された上で核外に出てきます。リボゾームはそのRNAを取り込んで、暗号を解読し、20種のアミノ酸からふさわしいアミノ酸を選び出して細長いひもにします。それらは計画通り折りたたまれ、うまくできなかったものはシュレダー機能で処分されます。このようなたんぱく質は10万種類あります。これは偶然でしょうか。
すなわち神が作られた世界つまり被造物を見るなら神がおられる事が分かります。

義人はいない。ひとりもいない。(3:10)

 まことの神を心では知っているのに、神を無視して生きるなら、私たちは罪を犯すようになります。(1:28~32)神の前に正しい(=義)と認められる人は誰もいません。

 レストランでアルバイトしたある青年は、大きな味噌汁鍋にゴキブリが1匹入っているのを見て店長に伝えました。店長は、「ゴキブリを取り出せ」と命じましたが、味噌汁全部を捨てろとは言いませんでした。

 完全にきよい神の前では、私たちは汚れた罪人です。良い行いをして罪を相殺したいと思っても、行いによっては誰も神に正しいと認めてもらえません。最高の出汁を使って丹精込めて味噌汁を作ることが「行い」です。たった一つの「盗み」(=ゴキブリ)があれば誰も味噌汁を飲めないのです。
 私たちの人生もゴキブリの入った味噌汁のようなもので、本来は捨てられるべき存在です。神の前に正しいと認められる人、つまり義人は一人もいないのです。

 
2、義
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(5:6~9)

 主イエスは罪人の私たちをそのまま愛してくれました。そして、私たちの罪を身代わりに背負って、私たちが受けるべき罰を受けて十字架で死んで下さいました。私たちの罪の処分が終わったので、神の法廷において私たちは義と認められたのです。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。(6:4~8)

 私たちはキリスト共に死んだのです。だから、罪から解放されたのです。私たちはキリストと共によみがえったのです。だから、キリストと共に生きる命が始まったのです。私たちの罪は、たった一度の主イエスの十字架で完全に解決されました。
 
 私は高校生の時にクリスチャンになりましたが、大学生クリスチャンのリーダー達が毎週のように私たち高校生の信仰状態を確認してくれました。「今日、死んでも天国行ける?」「救われているのは、君の気分が土台なの?」
 パウロが1~11章で書かれてある内容はそれと良く似ています。今日の気分がどうであれ、どんなトラブルにみまわれようとそれは問題ではありません。主イエスの十字架が私たちの救いの土台なのです。

 それでは、私たちはどうしたら神の救い、神の義を得られるのでしょう。

 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(10:9~10)

救われるためには、義と認められるために、どんなに努力しても、まじめに生きても、旧約聖書の律法を守ろうとしても、人間は行いによって神の前で義とされることはできません。いくら泳ぎの上手い人でも、アメリカから日本まで泳いで行けないのと同じです。ただ主イエスを信じる、その一点で義と認められ、救われるのです。


3、聖

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(8:28~30)

 イエスキリストを信じた者の特徴は「聖」です。信じる者のうちに住む聖なる霊=聖霊によって導かれるようになり、キリストに似た者に変えられます。神学では、このプロセスを聖化といいます。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(12:1~2)

イエスを信じた者は、自分自身を主にささげるように招かれています。聖いささげものとして自分をささげましょう。神のみこころを良く理解して、自分を変えていきましょう。

兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(12:10~19)

罪人の時は、嘘も悪い事も汚れも自分の欲望を遂げるためなら平気で行ってきました。義とされ人は、主イエスが愛したように、身近な人を愛すようになります。

主よ、あなたの愛に感謝します。私を義と認めて下さり感謝します。聖霊により、私をイエスさまのような姿に作り変えてください。私は、自分をあなたにささげます。あなたの栄光のために、神の国建設のために、私を用いて下さい。
 →あなたの番で
□罪:私は罪人です
□義:主イエスの十字架により義とされました
□聖:自分を主にささげ、聖く歩み、隣人を愛します