「生まれた日は滅びうせよ」 ヨブ記3:1~26

ついにヨブは、胸の内を語った。これは3人の親友のおかげだ。7日間もヨブの横にいて、黙ってヨブの苦しみ背負ってくれた。だから、ヨブは本音を話す気になれた。

「私の生まれた日は滅びうせよ」(3節)

ヨブが心臓を絞るようにして発した言葉は、生まれなければよかった。生まれなければ、こんなに苦しむことはない。

「なぜ、私は、胎から出たとき、
死ななかったのか。」(11節)

日本では1年間に毎年3万人以上が自殺している。死ねば、辛い現世を離れて「無」になれると日本人は考える。ヨブの考える<死者の国>も、それとよく似ている。13~19節には、<死者の国>へのあこがれが書かれてある。そこには、苦しみがなく、誰に追われることもなく、エジプト王も乞食も平等の立場を得、安らぎ、休み、いこい、解放がある、とヨブは期待した。
実際には、ヨブのあこがれる<死者の国>などない。現実から逃げたいだけだ。ヨブは安らぎがほしい、休みがほしかった。

「死にたい」と叫ぶ人は、人一倍「生きたい」と考えている。

和歌山県の白浜は、太平洋に突き出た風光明媚な温泉地。なかでも高さ50メートルの絶壁をほこる三段壁は格好の観光地であり、同時に自殺の名所として知られる。町の牧師、江見太郎牧師は1979年4月15日、三段壁に「いのちの電話」看板を設置、山本有三の『路傍の石』から取った言葉を書いた。

たったひとりしかいない自分を、
たった一度しかない人生を、
ほんとうに生きなかったら、
人間、生まれてきたかいが、
ないではないか。

最後に、「重大な決断をする前に、一度お電話ください。あなたの力になります。」と書き、電話番号を記した。
以来20年、ぎりぎりの状況での自殺電話相談は2万3千116件を数え、絶壁の上で実際に保護した人は672人となった。(1999年からは藤藪庸一先生が働きを引き継ぎ、毎年20人程度を保護している)
「たった一人でも、心の中を本当に打ち明けられる人がいると自殺しない」という言葉は本当だと江見先生は言う。江見先生は、深夜でも嵐の日でもその一人となるため三段壁に車を走らせ、自殺志願者を受け止めたきた。

ヨブは本当の心を仲間に打ち明け、神にも聞いてもらった。生まれなければよかった、死にたいのに死ねないと悲痛な気持ちを語り始めた。安らぎがない、休みがないと叫んだ。まさに、ヨブは三段壁の絶壁に足をかけているのも同じだった。

後半部分の20節から26節を見てみよう。苦悩を抱えて生きていくのが辛すぎる、太陽が疎ましいというヨブの気持ちがにじみ出ている。

「なぜ、苦しむものに光が与えられ、
心の苦しんだ者にいのちが与えられるのだろう。」(20節)

身近な人を失った朝、太陽がいつもと同じように昇るの。それが恨めしく感じる人が多い。こんなに大きな苦しみに出会ったのに、世界は何も変わらない。それがゆるせない。

「私には安らぎもなく、休みもなく、
いこいもなく、心はかき乱されている。」(ヨブ3:26)

同じ26節を口語訳は以下のように訳している。
「わたしは安らかでなく、またおだやかでない。
わたしは休みを得ない、ただ悩みのみが来る」

あなたは、こういう言葉を聞いた時にどんな反応をしてきただろう。多くの人は、絶望した人の強い言葉に耐えられない。語気を強めて叱咤激励したり、お説教をする。それは、聴いてる人自身が、否定的な言葉をきちんとそのまま聴けなくなる。音は聞いていても、言葉も心も聞けなくなる。目をそむけ、心の安全弁を掛け、否定的な感情が伝染しないように逃げ出してしまう。

ヨブは6章14節でこう言っている。
「落胆している者には、その友から友情を。
さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう」

どういう感情であれ、その言葉を、心を、そのまま、おうむ返しのように、言い直してあげよう。あなたの言葉を聞いているよ。あなたの心を受け止めているよ。あなたのそのままを、抱きしめているよ、と言葉と態度で伝えよう。

1888年賀川豊彦は神戸に生まれた。5歳になるまでに実父と産みの母が死亡した。そのため父の家があった徳島に引き取られたが、父の正妻は豊彦を苛め抜き、社会からも差別の目を向けられた。
<僕は生まれては生けない人間だと思う。めかけの子、芸者の子だ。>悩みを告白する賀川を受け入れ、励ましたのが宣教師たちやクリスチャン達だった。16歳で洗礼を受け、その後、極貧の人々を助け、労働運動、生活共同組合の組織、農民運動、政治運動、伝道活動、平和運動を展開、ノーベル平和賞候補にあげられた。否定的な自己認識を持った賀川に希望を与えたのは聖書の言葉だった。

あなたの絶望の言葉を、そのまま聴ける方がいる。イエス・キリストだ。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイ11:28)

ヨブ記3章には、積極的な励ましや慰めは一切ない。この章が聖書の文章として残された意味を最後に考えよう。
人の悲痛な言葉や、傷あとは、同じ痛みを持つ人を慰める。ヨブの叫び、そのものが、私たちの苦しみに共鳴し、不思議な安らぎを与えてくれる。傷ついた者には、闇が味方になるときがある。
出口のない部屋で、絶望している僕らに、「天井は空いている」、「神は全部を静かに聴いている」と語っているように、私には感じられる。