マタイ12:1~8  安息日の主

 パリサイ人は主イエスをねたみ、事あるごとに訴える口実を見つけていました。パリサイ人のデマ、悪口、嘘、詭弁を主イエスは放置しませんでした。悪い情報を放置しておくと既成事実のように拡散されてしまうからです。
12章はパリサイ人と主イエスの議論がまとめられています。こうした摩擦を通しても、主イエスがどんな方なのかが浮き彫りにされていきます。


1、パリサイ人からの批判

そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(マタイ12:1~2)

律法学者パリサイ人は、主イエスと弟子たちの行動をスパイのように探っていました。ある安息日、十二弟子はひもじくなり、歩きながら穂を摘んで、籾殻を外し、硬い実を口に入れてお腹の足しにしました。
それを観察していたパリサイ人は、律法違反だと主イエスを責めました。収穫と脱穀という仕事をしたとみなされたのです。重箱の隅をつつくとはこのようなことです。

パリサイ人を反面教師として、職場や学校や家庭の自分の姿を見直しましょう。自分より後輩・若い・優れた人に嫉妬していませんか。些細な欠点を指摘して意地悪していませんか。

神が教えて下さった律法はシンプルで、基本中の基本は十戒です。安息日には仕事をしてはならない(出エジプト20:10)という十戒の規定を弟子たちが破ったことになるのでしょうか。主イエスは、弟子たちの行動が律法違反と考えません。

律法学者らは、律法を守るための613の細則を作りました。安息日に歩いて良い距離は片道約900m、持ち上げてもよい重さは干しイチジク程度などと細かく規定しました。現在でも、イスラエルのホテルは安息日モードのエレベーターがあり、ボタンを押さなくても各階で自動で開閉します。

神が安息日を造った目的が何であったのか、神の本来の意図を理解すれば、枝葉の議論に入ることも、お互いが監視する必要もありません。
安息日は、礼拝する日です。男性が日常の仕事を止め、女性たちも料理、家事、育児から完全に開放され、休めます。父親は妻や子供たちと一緒に過ごします。
礼拝と休息と家族との語らい。それが安息日の目的です。安息日によって、人は生き方のリセットができるのです。



2、主イエスの反論

しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。(マタイ12:3~6)

 主イエスは、ダビデの例と安息日に働く祭司の例をを取り上げて、反論されました。
ダビデがサウルに追われていた時、祭司以外は食べてはならないパンを祭司から分けてもらって食べました。(第1サムエル21:1~6)ダビデに神の罰は下りませんでした。

 祭司たちは、安息日なのに神殿で働きます。安息日に労働することは厳に禁じられていますが、祭司の場合は例外として働くことが認められています。

 安息日の本来の趣旨をきちんと受け止めているなら、些細な点は問題ないのです。



3、「安息日の主」の意味

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」(マタイ12:7~8)

 パリサイ人は「罪のない者たちを罪に定め」た、と主イエスは断言されました。十二弟子は律法を犯していません。律法の細かい規定を守ったか、守らなかったか、という顕微鏡的な批判は無意味です。

いけにえより、神はあわれみを好む方だという旧約聖書の言葉(ホセア6:6)を主イエスは引用され、神の意図を説明されました。あわれみという言葉は、新改訳聖書2017では、「真実の愛」と訳されています。主イエスは真実の愛で私たちを愛してくださっています。私たちも、真実の愛で神を愛します。私たちと主イエスの関係が真実の愛によって相互に深まっていくなら、安息日律法に違反することはあり得ません。

 「人の子は安息日の主です」
 
 「人の子」は、詩篇などでは、人間と同じ意味で使われています。一般の人が、主イエスのこの発言を聞いたなら、ご自分を低くされた謙虚な方だと感じたかもしれません。
 もう一方で、旧約聖書の預言書で用いられる専門用語としての「人の子」があります。この場合の「人の子」はメシヤの呼称です。「人の子」は神の遣わされる救い主です。また、終わりの日に世界をさばく主です。
主イエスは大胆に、ご自分が主であると宣言しておられます。実に大胆で、確信に満ちています。安息日が作られた目的は主イエスにあると公言されています。パリサイ人たちはきっと怒り心頭に達したと思われます。

主イエスが安息日の主であるという意味を説明してみます。
安息日に礼拝すべき方は、主イエスである。
安息日に、真の休みを与えて下さる方は、主イエスである。
安息日が作られた目的は、主イエスにある。
主イエスを神の御子として受け入れ、安息日に主イエスを見上げればすべては満たされるのです。To get the son, get everything.

 「人の子は安息日の主です」

 →あなたの番です
  □重箱の隅をつつく批判を止めよう
  □安息日を本来の安息日に取り戻そう
□主イエスこそ、安息日の主です
  

マタイ11:25~30  疲れた人よ



1、神の知恵

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。(マタイ11:25~27)

 主イエスは、十二弟子を二人ずつ派遣した時に注意事項を与えました。また、獄中のバプテスマのヨハネを励まし、人々の前で彼を賞賛しました。奇跡を見ても心を動かさない町々に警告も与えました。
 その後、今までの伝道の働きを振り返り、父なる神の方法に感嘆の声を上げました。

「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」

人が知っておくべき真理は多くありません。神がおられる。神が私たちを造り、愛して下さっている。人間には罪がある。イエスは私たちを罪と滅びから救うお方である。それらの真理は、理解が難しいのではなく、謙虚になって主イエスのもとに行かないと見えない真理なのです。傲慢なままでは見えません。むしろ、見えないように幕がかけられてしまうのです。

 本当の真理は数学の公式のように血の通わない無機質なものではありません。神という生きた人格とつながることによって伝わる命のようなものです。
 謙虚になって主イエスの所に行きましょう。真理がいつのまにか、心の中で生きるようになります。


2、疲れた者へ

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
(マタイ11:28~30)

 「今日はしんどかったけど、やり遂げた。良く働いたな」という大工さんは夕食をおいしく食べられます。心地よい疲れは満足をもたらします
 サッカーの日本代表選手に選ばれた若者がいたら、その重荷でつぶされることはありません。えらばれた事を光栄に感じ、一層努力するでしょう。自分が夢見た責務は喜びです。

 けれども、奴隷労働のように働かされている人、非人間的なプレッシャーをかけられている人は、疲れと重荷でつぶれてしまいます。体も心も破壊されてしまいます。

 疲れと重荷でつぶされそうな時は、どうしたら良いのでしょうか?

①原因を見つける=問題要素を分解して、解きほぐす
②慰めをもらう=誰かに事情を話し共感してもらう

③具体的な救出=誰かに助けてもらう、休養を取る、転居・転職する

④立ち向かう=刷新された心を持ち、具体的対策を講じ、問題を乗り越える
 
 主イエスはこう言われました。
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 まず、主イエスの所に行きましょう。主イエスの所に行き、どんな疲れなのか、どんな重荷なのかを祈りによって伝えましょう。話す中で原因に気がつきます。問題の要素を分けて考えられます。主イエスは、あなたの悩みと辛さを分かって下さいます。「わたしがあなたを休ませてあげます」と主イエスは約束しておられます。
 
 一人で問題につぶされないようにして下さい。主イエスのくびきを負うならば、主イエスから学ぶことができ、心が強められ、愛の行動が身に付き、試練に立ち向かう勇気が与えられます。

 「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(28節)

 くびきとは木の道具で、メガネのフレームを大きくしたようなものです。二匹の牛が頭を入れるようにできています。農作業をしたり、荷車を引く時に、二頭の牛が同じスピードで前に進めるようにするものです。
 くびきの片側に主イエスが頭を入れるので、もう一つに頭を入れてごらんと主イエスは言っいます。同じくびきに入っているなら、疲れ切って倒れそうな場面でも、主イエスが力を出してくれるのであなたは休めます。重荷で打ち負かされそうな時も、主イエスがリードしてくれます。主イエスと二人なので問題から逃げることなく前に進めます。これが、主イエスを信じる者の人生です。主イエスと共に歩むので、主イエスからたくさんの事を学べます。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」主イエスと一緒なのでたましいに安らぎがあります。「そうすればたましいに安らぎが来ます」

「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」
(イザヤ28:12)

「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。」(詩篇68:19)

主イエスのもとに行きましょう。真理に生かされます。主イエスのくびきに頭を入れましょう。疲れと重荷は去り、主イエスから学び、前進することができます。

 主イエスと二人三脚の日々を送る人は、その人自身も小さなくびきを作り、倒れそうな人をそこに招くようになります。主イエスにしてもらったように、誰かを励まし支えることができます。

 →あなたの番です
  □主イエスの所に行こう。真理が見える。  
  □主イエスのくびきに頭を入れよう。いやされ、前進できる。
  □あなたも誰かを支え励まし助ける人になろう


ルカ2:8~20 羊飼いのクリスマス

 救い主の誕生を最初に知らされたのは羊飼いでした。
 なぜ羊飼いだったのでしょう。


1、あなたがたのため

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:8~11)

社会をピラミッドで表すなら、羊飼いたちは三角形の底辺にいた人々でした。羊飼いは3つのマイナスを背負っていました。貧しい。きつい。見下げられている。
羊飼いから連想されるのは、のどかな仕事というイメージですが実態は逆です。羊飼いをしていたヤコブは、「昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした」(創世記31:40)と述べるほと過酷な労働でした。律法に無知で戒律を守れない人々を律法学者は「アム・ハ・アレツ」(地の民)と呼び軽蔑しました。その仕事の特殊性ゆえに宗教的戒律を守れなかった羊飼いも軽く見られていました。

御使いの言葉に注目して下さい。「あなたがた」という言葉が繰り返されています。

「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」
「あなたがたは……見つけます」
「あなたがたのためのしるしです」

羊飼いの毎日は、働いても働いても苦しく、貧しさから脱出できず、見下げられて惨めな思いをしていました。でも、救い主の誕生は最初に羊飼いに知らされました。

私もあなたも、羊飼いに似ているかもしれません。貧しい。苦しい。見下げられている。社会の底辺で希望を失っている人のために、救い主は生まれてきたのです。



2、あなたがたのしるし

あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:12~14)

ベツレヘムの町には赤ちゃんが何人もいたでしょう。どの赤ちゃんが救い主なのか、天使は見分けるための目印を教えてくれました。飼葉おけに寝ている子だというのです。

どんなに貧しい家の赤ちゃんでも家畜の餌箱に寝かせることはありません。だからこそ、目印になったのです。羊飼いは、この印を聞いて驚いたでしょう。俺たちよりも貧しく生まれた赤ちゃんだ。まさに俺たちのための救い主だ。

 天使の軍勢が突然夜空に現れて神を賛美し、栄光と平和を歌ってくれました。聖書の中でも、これほど大勢の天使が歌ったという記録はありません。
 私はミュージカル映画が好きですが、この場面は人類史上初のリアルミュージカルとなりました。軍勢とは天使によって構成された軍隊を意味します。兵士が望むことは、平和です。救い主イエスさまが生まれたことで、神の栄光がより一層あらわされたのです。主イエスの誕生をきっかけに地上に真の平和が始まったのです。



3、あなたがたが……見つける

御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:15~20)

 「さあ、ベツレヘムに行って……見て来よう」羊飼いたちは行動しました。

 羊飼いたちはベツレヘムに行き、赤ちゃんを捜し歩きました。そしてついに見つけたのです。羊飼いは、ヨセフとマリヤに野原で起きた事柄を残らず話しました。マリヤもヨセフも、そこにいた人たちも、その話に驚き、マリヤは心に留めて思いを深めていました。

 羊飼いは、この赤ちゃんが救い主になってくれるのだとじっと見つめ、感激したことでしょう。帰り道、羊飼いたちは、天使の言った通りだったので神をあがめて、自分たちが歌い出しました。こんなふうに歌ったかもしれません。天使が歌ったメロディーを覚えていて、それを繰り返したかもしれませんね。

メリークリスマス。救い主イエスさまがお生まれになりました。
クリスマスに最もふさわしい応答は、救い主に会いに行き、心に受け入れ、神を賛美することです。主イエスが救い主であると、歌いましょう


→あなたの番です
 □主イエスは、底辺にいる人のために生まれて下さった
 □主イエスを見に行く、受け入れる、賛美する



マタイ11:20~24  ああコラジン

 主イエスは、点としての個人の救いだけでなく、面としての町の救いを願っていました。神の国は、一つのコミュニティーが変えられることから進展します。


1、コラジン、ベツサイダ、カペナウム

それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:20~22)

コラジンとベツサイダは町の名前です。主イエスは、個人が救われるだけでなく、町やコミュニティーが全体として変わることを願っていました。
コラジンはガリラヤ湖から2マイル北西に入った町です。ベツサイダはガリラヤ湖畔北部の町です。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:22~24)

カペナウムはガリラヤ湖北部の町です。ガリラヤ湖に注ぐ川の東側がベツサイダ、西側がカペナウムです。
主イエスの公の活動は約3年ですが、最初の2年間はおもにガリラヤ湖周辺で行われました。カペナウムにはペテロの家があり(マルコ1:21、29)、主イエスはよくそこに滞在されていました。ですから、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの町々はどこの町よりも主イエスの教えを聞き、多くの奇跡を経験したのです。(マルコ1:32~34)


2、力あるわざ

それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。(マタイ11:20)

マタイは20節で「力あるわざ」と表現しました。原文ではδυνμεις ατο(=彼の力)です。聖書には、「奇跡」「不思議な力」「力あるわざ」という言葉が出てきますが、原文では同じ単語「デュナミス」が使われていて、力という意味です。

奇跡を見せてくれ、そうしたら信じるよ、という人がいます。ところが、この3つの町の人々は、盲人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえ、歩けなかった人が飛び跳ね、隔離された皮膚病患者がきれいにいやされて社会復帰し、死人がよみがえった姿を目撃したのですが、一時的に驚いただけで、罪を悔い改めて主イエスを信じる人は少数でした。奇跡を見ても、信仰を持つかどうかは別問題でした。

 ツロとシドンは海沿いの外国の町で、太古から栄えた貿易港です。また、享楽の町、不道徳の町、異教徒の町でもありました。(悪名高い王妃イゼベルは、シドン王の娘でした)コラジンやベツサイダは、ツロやシドンよりも悪いと主イエスは言いました。
さらに、ユダヤ人の歴史で最も堕落した町として知られるソドムのほうが、カペナウムより裁きの日に罰が軽いと主イエスは言いました。

現代日本風に言えば、新宿歌舞伎町で主イエスの奇跡が行われれば、人々は罪を悔い改め、罪を悲しむ印としての荒布をまい、頭から灰をかぶったことだろう、となります。

ところで、その年の世相を漢字一字で表し大きな紙に筆で描くというパフォーマンスが行われますね。コラジンやベツサイダやカペナウムの人々の姿を漢字一つで表すなら何になるでしょう。「拒」です。
人間の心の底には、今の生き方を変えたくないという強い意思が横たわっています。イエス・キリストを拒絶する姿勢が染み付いています。主イエスは、わたし達が「拒」から「信」に変わることを願っておられます。



3、修理人イエス

ああコラジン。ああベツサイダ。(マタイ11:21)

「ああ」(ウーアイ)という言葉は、哀しみと嘆きを表す感嘆詞です。主イエスは、コラ人やベツサイダの人々を思い、嘆いているのです。悔い改めて、自分自身をゆだねてほしいと主イエスは願っています。

主イエスが繰り返したフレーズを思い出して下さい。それは、「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)です。  謙虚に自分の罪を認め、罪を悔い改め、福音を信じましょう。福音を信じるとは、主イエスを信じることです。

 日本にはぬいぐるみを修理する有名な方がいます。穴が開いたり、パーツが取れたり、全体がしぼんだり、汚れたり、伸びきったものも直してくれるとテレビなどで知った人が、ぬいぐるみを持ってきます。
 修理する人は、依頼主の話を良く聞いてから作業を開始します。最初は、内部に詰めてある綿やウレタンなどを出します。黄色く汚れています。それから、丁寧に手洗いして汚れを落とします。その後、専門知識と長年の経験を生かして、みごとに再生します。

 主イエスは人間の修理人です。本来のあなたの姿に戻してくれます。ただし、最初に自分の罪を主イエスに言う必要があります。悔い改めですね。そして、洗ってもらいましょう。洗礼です。

ドストエフスキーの小説『罪と罰』は、人間の罪と悔い改めをテーマにしています。主人公ラスコーリニコフはお金欲しさから殺人を犯し、捜査をかいくぐって生き延びようとします。現実逃避したり、刑事の影を恐れたり、殺人を正当化し、人間が崩れていくこと自体が罪の罰でもあります。彼を愛するソーニャは、こう言います。「十字路へ行って、みんなにお辞儀をして、大地に接吻しなさい。だってあなたは大地に対しても罪を犯したんですもの、それから世間の人々に向かって大声で、わたしは人殺しですと言いなさい」ラスコーリニコフはソーニャの言葉の通りひざまずき、犯行を自白し、刑に服します。小説では、シベリアでの厳しい流刑生活が語られ、小説の最後にこう書かれています。「しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間がしだいに更生していくものがたり……」

コラジン、ベツサイダ、カペナウムの人のようにならないで下さい。主イエスに心を閉じないで下さい。審判の日は来ます。罪のままでは滅びてしまいます。悔い改めて、主イエスを信じましょう。修理人イエスさまに身をゆだね、直してもらいましょう。


→あなたの番です
 □コラジンやカペナウムのように拒絶しない
 □罪を悔い改める謙虚な心を持つ
 □修理人イエスにお任せする

マタイ11:7~19   主イエスは、ほめる方

 主イエスは、ナタナエルをほめ、百人隊長をほめ、ナルドの香油の女をほめました。今日、主イエスはバプテスマのヨハネをほめています。

1、ほめられたヨハネ

主イエスは聴衆に向かってこう言いました。ガリラヤの人たち、あなたたちは60マイルも南にある荒野まで行きましたね。その目的は、ヨルダン川岸の葦を見るためでも、宮殿に住む貴族たちを見るためでもありません。バプテスマのヨハネを神の人として認めたから行ったのです。彼は、「預言者よりもすぐれた者」なのです。彼は並の預言者ではなく最高の預言者です。

この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。(マタイ11:7~9)

 ヨハネの弟子たちが主イエスの回答を持ち帰った事を見届けてから、主イエスは群集に向かって、公に、バプテスマのヨハネを賞賛しました。まるでヨハネの表彰式ようです。

 牢獄の看守が主イエスのほめ言葉を伝え聞き、「すごいな。あのイエスがお前のことを人前でほめてるぜ。最高の預言者だってよ」とヨハネに教えたかもしれません。
ヨハネの弟子たちも、「聞いてください先生、救い主イエスがあなたのことを人前ではっきりとほめています。あなたより偉大な人物はいないと。先生、良かったですね。私たちも嬉しいです。鼻が高いです。」
ヨハネは苦しい獄中生活をしていましたが、主イエスの賞賛の言葉は何よりの励ましになりました。今までの苦労が報われ、心が開放される喜びを味わったことでしょう。

青函トンネル工事で34人の人が命を落としました。黒部第四ダム工事では、171人が亡くなりました。東海道新幹線の工事では210人が死亡しました。尊い犠牲を忘れてはならないし、遺族の方々のためにもこうした人々への賞賛を後代に残していくべきだと思います。主イエスがなさったように、公に、明瞭に。

主イエスは、ほめて下さる方です。

主イエスはあなたもほめてくれます。あなたの隠れた苦労、誰にも知られていなかったあなたの親切、良い行い、誠実さ、涙、ささげた祈りを主イエスは見て、あなたを心からほめてくれます。私たちの神、救い主イエスはあなたを賞賛してくれる人です。



2、ヨハネの優れた点

この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい。(マタイ11:10~15)

主イエスは、客観的にほめ、主観的にほめ、最後に、努力をほめました。

 「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。」という言葉は旧約聖書のマラキ書3:1です。主イエスは、ヨハネの業績をほめました。ヨハネは、マラキの預言通りの働きをした。救い主のために、ひたすら道を備えた。これは客観的な評価です。誰が見ても、その通りだと分かりました。

 主イエスは次に、女から生まれた者の中でバプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ません」と断言されました。
確かに、ヨハネは偉大です。母の胎内にいた時から聖霊に満たされていた。(ルカ1:41)。庶民の罪も国王の罪も恐れずに断罪する勇気を持っていた(マタイ14:4)。荒野で叫ぶ声(ヨハネ1:23)としての分をわきまえ、救い主を指し示す謙虚さを持ち続けた(マタイ3:11)。救い主に直接会うことが許された唯一の預言者であり、主イエスにバプテスマを授けた人(マタイ3:15~16)。

ほめ言葉は、主観的で良いのです。「私から見たら、あなたは世界一ハンサム」「何歳になってもあなたはステキ」と奥さんが本当に思えば、それは立派なほめことばです。
主イエスは、人類史上でヨハネが最高の存在だとほめました。ヨハネはこの言葉を聞いて苦笑いしたかもしれません。主イエスの主観的評価になるかもしれませんが、それで良いのです。牢獄で、ヨハネは大きな勇気を得たはずです。

 「この人こそ、きたるべきエリヤなのです」と主イエスは言われました。竜巻にまかれて地上を去った力ある預言者エリヤは、世の終わりに帰って来ると預言されていました。(マラキ4:5)ヨハネこそがエリヤだと主イエスは明言されました。

 小学生の女の子が、自発的に早起きして勉強をしたという作文を読みました。それによると、お母さんがほめてくれるかな、ほめてくれると嬉しいなと期待しながら勉強の成果を見せたというのです。お母さんはほめるずに、むしろ怒って、明日の分もやりなさいと言いました。女の子は、思わず泣いてしまったという作文です。

 主イエスは、バプテスマのヨハネの信仰の揺らぎを知って、叱り飛ばすこともできましたが、何も責めませんでした。むしろ、ヨハネをほめました。客観的に、主観的に、多くの言葉を用いて公にほめました。
 主イエスは、そういう方なのです。



3、笛ふけど踊らず、だね

この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」(マタイ11:16~19)

 最後に主イエスは、もう一つの方法でヨハネをほめました。
 ほめる時は、客観的に成果が出た時、主観的に素晴らしいと感じた時、そして、努力したのに報いられなかった時に、そのプロセス自体をほめることができます。

 主イエスはヨハネにこう言っているのです。笛吹けど踊らずで、預言者はつらいよというところだな。何度も断食し、荒野で野蜜やイナゴを食べてサバイブしたのに、悪霊呼ばわりされてかわいそうだ。わたしの歩みもあなたとそっくりだ。罪人の救いのために一緒に食事をすれば、大食漢で大酒飲みと揶揄され、取税人と同類だ言われた。君の苦労は良く分かる。良く頑張った。

 成果が出なくても、失敗しても、ほめることができます。

 入学後、初めての登校日に電車通学をした中学生がいました。緊張のあまりカバンを棚に置いたまま降車してしまいました。駅員さんと交渉し、数駅先まで行って回収して学校に行きましたが大幅な遅刻になり校門付近で校長先生とばったり出会ってしまいました。
 その女性生徒は遅刻をわび、何があったのかを説明しました。校長先生は、それは大変でした、自力で取り戻せたのだから立派です、そういうあなたを誇りに思いますよと言ってくれました。

 主イエスは、あなたの苦労をねぎらって下さる方です。ほっと一息つけますね。

 やがて私たちはイエスさまにお会いする日がきますが、主イエスはきっと言ってくれます、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25:21)と。

人をほめられない人は、神を賛美することが困難になります。賛美の本質は、神をほめることだからです。いつも身近な人をほめている人は、どんな時でも神をたたえることができます。
さあ、今週、周囲の人をほめましょう。あなたは、主イエスにほめてもらっている人なので、きっとできます。夫をほめ、妻をほめ、子供をほめ、上司や同僚をほめましょう。


→あなたの番です
 □主イエスは、あなたをほめてくれます
 □今週、身近な人をほめる  
□客観的に、主観的に、努力をねぎらい、ほめましょう

マタイ11:1~6 ぐらつくヨハネ

 今回は、バプテスマのヨハネの心の葛藤を取り上げます。

1、疑うヨハネ

イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:1~3)

バプテスマのヨハネは炎の預言者でした。らくだの毛皮を着ていなごと野密を食べて荒野でストイックな生活をしながら、罪を悔い改めよと人々に叫び、救い主のために道を備える働きをしました。(マタイ3:1~6)
庶民でも権力者でも分け隔てなくはっきりと罪を指摘し、悔い改めのバプテスマをヨルダン川で授けました。国主ヘロデの結婚が不法だと糾弾したため、捕らえられ、今は牢獄に閉じ込めたれていました。(マタイ14:3~4)

本来のヨハネなら、主イエスの数々の奇跡を聞いて、「ハレルヤ!あなたの奇跡のみわざを聞いて心からあがめます。あなたこそ私が道を備えた救い主です」と主イエスに言葉を伝えていたはずです。

ところが、ヨハネは信仰がぐらついていました。主イエスの奇跡の話を聞いても「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と弟子を通じて主イエスに尋ねました。

隔離され、孤独になり、劣悪な環境と最低の食事のために体も心も衰弱し、死刑の恐怖が信仰を不安定にさせたのかもしれません。救い主であるはずの主イエスが、私を牢獄から救い出してくれない。今までの労苦は報いられるのだろうか。自分が信じて来た救い主は、本当にイエスだったのだろうか。

 あなたも信仰がゆらぐときがありますか。



2、事実に目を向けよ

イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:4~6)

主イエスは、ヨハネを叱責しません。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」というヨハネの質問に対する主イエスの答えはシンプルでした。わたしが救い主だと言う代わりに、聞いたり見たりしていることをヨハネに伝えなさい、とヨハネの弟子たたちに命じました。

信仰がぐらついた時は、第一に、事実に目を留めることが必要です。主イエスが何をなさったか、何が起きたのかを心に留めましょう。信仰の土台は事実です。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。(マタイ11:5)

イエスの奇跡は、誰もできないし、誰も見たことのないものでした。イエスの敵対者の祭司や律法学者すら奇跡を否定できなかったことを思い起こして下さい。「この人は、悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」(マタイ12:24)「彼は他人を救ったが、自分は救えない。」(マタイ27:42)

主イエスは、実際に起きた奇跡によって、ご自分が神であり救い主であることを示されました。



3、みことばに目を留めよ

信仰がぐらついたときに、第二に大事なことは、神のことばです。

主イエスは、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と言われました。

主イエスの発言を聞いて、ヨハネはイザヤ書35章を思い出し、ドキッとしたはずです。主イエスが言われたことは、イザヤ書35章の預言の成就だったからです。
「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない舌は喜び歌う。」(イザヤ35:5~6)

 そもそも、ヨハネは祭司の息子であり、聖書に通じていた人でした。イザヤ書の言葉から自分の使命を理解して「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)という自己認識をしていました。
 主イエスの言葉の引用元であるイザヤ書35章の最初の部分も同時に思い起こしたはずです。

 「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
  心騒ぐ者たちに言え。
  『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。』」(イザヤ35:3~4)

 信仰が揺れ動くことは人生に何度かあります。そんな時、「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と言って私たちを励まして下さいます。

 ヨハネの立場で主イエスの言われた内容を聞き直すと、主イエスの言葉に励ましのヒントが隠されていた事が分かります。
 バプテスマのヨハネは、牢獄から出られず世の中の事は見えない盲人の状態にいました。牢屋の外に出られず、足が不自由で歩けない人のようでした。ツァラトに冒された者のように隔離され孤独でした、耳が聞こえない人のように情報が限定されました。死刑を待つ身のヨハネは、生きていても死人でした。そして、最も貧しい人のような最下層で失望した人のように暮らしていました。主イエスは、これら6つの事柄に勝利する奇跡をなさったお方です。ヨハネにとって何と大きな励ましになったことでしょう。

 信仰が揺らいだ時は、第一に事実に目を向け、第二に神の言葉に留まり、第三に主イエスの励ましに耳を傾けましょう。

「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。」


 →あなたの番です
   □心がゆらぐときもある
   □事実と神の言葉に土台を置く
 □主イエスの励ましを受け止めよう

マタイ10:34~42 十字架を負って

 十二弟子は二人一組で伝道旅行に派遣されました。それに先立って、主イエスが注意事項を弟子たちに語られた内容が10章です。最初は具体的なアドバイスで、病人をいやしなさいとか、財布は持つなという指示でした。内容は次第に弟子の内面に関するものとなり、今日の箇所はキリストの弟子として最も大切な心構えが語られています。


1、父母よりも

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:34~37)

 旅客機のパイロットはシュミレーターで訓練を受け、突然エンジンが止まるなど過激なトラブルの対処を学びます。
主イエスは、いわば信仰シュミレーターを用いて弟子たちを訓練されました。家族との対立という最も過酷なトラブルを想定させました。良く考えさせ、それでも主イエスに従う事が弟子の道だと教えました。
実際のところ、両親から信仰を反対されるクリスチャンがいます。尊敬し、愛する父母とぶつかるのは精神的にきついです。でも妥協はいけません。主イエスは剣をもたらす方です。

 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」

 誰よりも主イエスを愛します。私を愛し、私のために命をお捨てになった主イエスを誰よりも愛しますと心に刻んでおきましょう。それが弟子の心です。

 

2、いのちを失う覚悟

 今日の中心聖句は38節と39節です。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:38~39)

 1909年2月28日午後8時過ぎ、北海道の塩狩峠で、列車の最後尾の客車が外れて峠を下り始めました。乗り合わせた鉄道の職員職員、長野政雄さんは自らの体を車両の下敷きにして乗客を救いました。長野さんは熱心なクリスチャンで29歳、その時携帯していた小型聖書の表紙は赤く染まりました。

 1954年9月26日、アメリカ人宣教師ディーン・リーパーとカナダ人でメソジスト派の宣教師アルフレッド・ストーンは、青函連絡船「洞爺丸」に函館から乗り込みました。台風の直撃を受け船は沈没、その際、自分の持っていた救命胴衣を日本人に与えて命を救い、自分たちは犠牲になりました。

 この人たちは、なぜ、自分の命を捨てて他の人を助けることができたのでしょうか。それは、主イエスの弟子として死ぬ覚悟があったからです。

自分の十字架を負ってついて来なさいと主イエスは言われます。十字架を負うとは、自分のハンディとか運命とか苦悩を背負うという意味ではなく、死ぬ覚悟を意味しています。十字架刑の場合、死刑囚は自分がかかる十字架をかついで刑場に行きました。キリストのために命さえ惜しまない。それがキリストの弟子の心構えです。

この心構えさえできていれば、身近な人を愛すとか、奉仕のために自分を捧げるとか、誰かのために時間を使うとか、大切なものを捨てることができるのです。

キリストの弟子になりたいですか。それなら、キリストのために死ぬ覚悟をしましょう。大切なものをいつでも捨てるつもりで生きてみましょう。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:38~39)



3、私がキリスト?

あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:40~42)

キリストの弟子を受け入れることは、キリストを受け入れることになる。また、それは、父なる神を受け入れることになる。キリストの弟子に水を飲ませる行為は、キリストに水を差し上げることになる。
ここで、キリストの弟子とキリストが同一視されています。キリストの弟子としては光栄なことです。

「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」あなたの存在は、まるでこの地上にキリストが生きておられるのと同じことだと主イエスがみなして下さるのです。あなたや私がキリストの弟子としての心構えを持って生きるなら、地上にたくさんのキリストが生きていることになるのです。


「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」

キリストの弟子になりたいですか。生涯、キリストのあとについて行きたいですか。

→あなたの番です
 □家族より、誰よりも、主イエスを愛します
 □主イエスのために命を惜しみません