マタイ12:46~50 主イエスの家族

「家族の者がその人の敵になります。」(マタイ10:36)と、主イエスが言われたことがありますが、主イエスの家族でもそれが起きました。


1、イエスの肉親
イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」(マタイ12:46~47)

 主イエスの実家は、丘陵地帯のナザレという町にありました。母マリヤと弟たちはガリラヤ湖畔まで下りて来て、おそらくカペナウムの町までやって来たのでしょう。兄弟たちとは弟たちのことで、マタイ13:55によれば、「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」です。

 マルコの福音書は、マリヤと弟たちが来た理由を率直に書いています。「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。『気が狂ったのだ』という人たちがいたからである。」(マルコ3:21)
イエスの家族は、パリサイ人たちが流した悪い噂を信じてしまったようです。イエスの気が狂っていたら、弟4人なら力ずくで連れ戻せると考えたのでしょう。ヨハネ7:5によると、「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」ことが分かります。
 パリサイ人から批判と悪口の集中砲火を浴びていた主イエスですが、家族まで敵に回してしまいました。

 私たちも、家族に信仰を理解してもらえず、馬鹿にされたり、けなされたりすることがあります。主イエスは、私たちの立場を体験的に分かってくれます。

 主イエスはこの時、母や弟たちと議論しませんでした。このタイミングでは無駄だと判断されたのでしょう。おそらくこの2年後、弟たちは主イエスを救い主と信じました。「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(使徒1:14)信じるのに時があるのです。



2、イエスの真の家族
しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイ12:48~50)

家族が来ていると知らせてくれた人に、主イエスは禅問答風に言われました。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」その人が答えに窮していると、わざわざ手を伸ばして、この人たちがわたしの家族だと言われました。示した人々は、主イエスの弟だちではなく、弟子たちでした。家族はそれを見て驚いたことでしょう。この後、主イエスが家族と話したとは聖書は書いていません。

家族とは、血のつながりを土台とした、世界で最も大事で濃密な人間関係です。私たちは家族に愛され、育てられ、一人前になります。やがて、互いに助け合う一員になります。

主イエスは、家族の定義を大きく変えました。血縁や人種や言語や親密さが神の家族の絆ではなく、父なる神のこころを行う人が主イエスの家族だと言われました。人生の目的の一致。父なる神の夢を実現する人。神の国建設に携わる人。それが主イエスの家族です。

 ある青年が大学院で学んでいました。お父さんが危篤と知らされて病院に行きました。今まで父に反抗してきたのですが、素直な心になってベッド脇でこう言いました。「お父さん。もう心配しないでいいよ。お父さんの遺志はしっかりと僕が継ぐからね。」息子は学校を中退して、父の社長職を引き継ぎました。
 父の心を行ったことで、彼は真の意味で家族になったと言えるかもしれません。

 父なる神の心とは何でしょう。自分の言葉で言い換えてみましょう。
 正しく生きる。人に優しくする。誠実に生きる。謙遜に生きる。忍耐する。仕える。育てる。ケアする。励ます。慰める。与えられた使命を全うする。
 今週、父の心を一つでもしてみましょう。

父なる神の心を行おうと願い、具体的に実行する人に対して、主イエスはこう言ってくれます。あなたは、わたしの家族だよ。あなたは一人ぼっちではない。


→あなたの番です
 □あなたは一人ぼっちじゃない
 □あなたは神の家族の一員
□父なる神のみこころを行ってみよう


マタイ12:38~45 あなたの心に触れたいイエス

 主イエスは、強烈なストレスにさらされる中でも、心折れそうな人々に愛を注ぎました。悪意ある質問に答える時すら、パリサイ人に真理を悟らせようとし、悔い改めのヒントを何度も投げかけました。
 今回も、一人のかたくなな心をもつパリサイ人に主イエスは真摯に語られました。


1、悪い時代になった

そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。(マタイ12:38~39)

 パリサイ人の一人が「先生」と語りかけました。主イエスを殺そうとしている人の言葉なので、これは嘘で偽善です。尊敬心のない者が「先生」と呼ぶのは侮辱です。

 主イエスの数々のいやしを目の前で見て来たのに、しるしが見たいと言い張るのです。目が見えず、口がきけず、悪霊につかれていた人のいやしも見ているのに、それでも不十分だというのです。救い主の証拠となる奇跡ができるはずだというのです。

 悪い時代になってしまった。悪い人々が増えてしまった。姦淫の時代だ。邪悪な人々だ。主イエスのいやしによって、あれだけ多くの人の流した感謝の涙に心が動かされないでいる。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」と主イエスは嘆きました。

 主イエスは、何が問題点なのかを瞬時に見抜きました。しるしが提示されるか、されないかが問題ではない。パリサイ人が、最初から信じるつもりがないことが問題なのです。誰かの証言を聞いても、何かの事実を見ても、心が閉じているのです。目の前で主イエスがガリラヤ湖の水の上を歩いても、きっとこう言うでしょう。悪霊の力で歩いたのだと。

それで主イエスは二つの話をしました。預言者ヨナの話しを聞いてニネベの人々が悔い改めた話。ソロモンの話しを聞きに来た南の女王がその言葉に驚き、感嘆した話です。しるしが起きるか起きないかでなく、大事なことは聞く人の心の柔らかさ、謙虚さなのだというのです。


2、ニネベと南の女王

ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。(マタイ12:40~42)

 この時代からざっと700年前の出来事でした。アッシリアの首都ニネベは、罪深く邪悪で神に逆らう町として有名でした。三日三晩、大魚の腹の中で生き延びたという預言者ヨナの話はニネベの人に大きなインパクトを与えました。今のままでは神に滅ぼされるという警告は、町の人々の心をとらえました。預言者ヨナの体や顔や髪の毛に、魚の中で消化されかけた後遺症がみられたのかもしれません。大魚の中で生き延びた地獄のような体験のリアルさを聞いて、人々は身の毛もよだったかもしれません。
 邪悪なニネベの人々も、預言者ヨナが語る神の言葉を聞き、ヨナの体験、生き残ったしるしを見て、心から悔い改めたました。ニネベの人々は、パリサイ人とは違って、柔らかい心を持っていました。

主イエスはヨナよりもはるかにすぐれた方です。今、主イエスは、病人をいやし、神の言葉を語っていました。ニネベの人なら、主イエスを見て、すぐに悔い改めたことでしょう。心をかたくなにしたパリサイ人がしるしを見せろと叫び続けるなら、さばきの日にニネベの人々がパリサイ人を罪に定めると主イエスは語りました。

この話の中で主イエスは、十字架で死んで三日後によみがえると、そっと予告されています。実は、十字架と死と三日目のよみがえりこそが、唯一のしるしなのです。

 もう一つ。ヨナの例と似ているのですが、旧約聖書の出来事を主イエスは取り上げました。イエスさまの時代から約1000年前のことです。
ソロモンがユダヤの王だった時、南の国、シェバの女王が噂を聴いてはるばるやって来ました。女王は、ソロモンの語る知恵の言葉に魅了されました。また、王の宮殿や従者の姿、神殿や礼拝する人々を見て圧倒されました。女王は「あなたの神、主はほむべきかな」(第1列王10:9)と神をたたえたのです。
 さばきの日が来たら、シェバの女王が、心の閉じたパリサイ人たちを厳しくさばくだろうと主イエスは告げました。
 
 南の女王の関心は、ソロモン王の知恵の言葉でした。おそらく、自分こそ知者だと誇っていたからこそ、賢者の誉れ高いソロモンに会いたかったのです。いわば、知恵の道場の門前破りです。われこそは真の知者なりと言いたかったのでしょう。神の知恵に満ちていたソロモンにまったく歯が立ちませんでした。高慢な女王に見えても、ソロモンの言葉を低い心で聞く謙虚さを持っていたのです。かたくなな心で、目を閉じ、耳を閉じていたパリサイ人とは正反対の姿勢でした。

 邪悪なニネベの人も、権力者で知者の女王も、柔らかい心で言葉としるしを受け入れました。自分の非を認め、神をたたえました。



3、7つの悪霊を引き連れて

汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」(マタイ12:43~45)

 最後に、悪霊を追い出してもらっても、その悪霊は7つの悪霊を連れて来て支配するというたとえを主イエスがされました。かたくなな心を貫くなら、同じめにあうと言われたのです。邪悪な人はもっともっと邪悪になる。「初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです」

 これは、主イエスの警告です。主イエスを殺したいパリサイ人であっても、しるしを見せろと悪態をつく男であっても、そのままではコンクリートのような心になる、邪悪な人になってしまう。心の在り方をかえてみようと、彼の心に触れようとしています。

 宗教哲学者のマルチン・ブーバーは、真実な出会いによって人は新しい人になると述べています。主イエスと心の深い部分で出会うことができれば、私たちは一瞬手前の自分とはまったく異なる私になれます。主イエスは、あなたの心と出会いたいと願っています。

ひるがえって自分の姿を見つめましょう。神があなただけに示して下さったしるし、つまり、神しか為し得ない出来事があなたの人生にありませんか。この一年の間に、神は確かにおられたと思えた出来事がありましたか。ここ1ヶ月の間に、主の助けや守りを体験しましたか。
また、預言者ヨナが語ったように、ソロモン王が神について語ったように、神についての言葉を聞いて納得したり、心に平安が来ませんでしたか。

主イエスの行動を見、主イエスの言葉を聞いて、謙虚に主イエスを受け入れましょう。

「ヨナよりもまさった者がいるのです」(41節)

→あなたの番です
 □謙虚に見たり聞いたりする心があれば、大切なものが見える
 □悪意ある人を思いやる主イエスの姿

マタイ22~37 良い木になりたい

 愛の人、柔和な人、優しい人。それが多くの人が持っている主イエスのイメージです。それだけではないのです。今日の箇所を読むと、勇気ある人、論理的な人、直言する人だということが分かります。

1、パリサイ人からの悪口

そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」(マタイ12:22~24)

 主イエスは、大勢の人をいやしておられました。その中に、三重苦の人が連れて来られました。目が見えない。話せない。悪霊につかれている。その悲惨さと凶暴な行動のゆえに、身近な家族も知人も、食事の世話以外は何もできなかったでしょう。主イエスは、その人をいやしました。盲人が見えるようになり、話せなかった人が話し、悪霊につかれていた人が正気にもどったのです。

 主イエスの奇跡を見慣れた人々も今回のいやしには心底驚きました。人々は、「この人は、ダビデの子なのだろうか」と言い始めました。旧約聖書の預言通りの、ダビデの子孫として生まれる救い主かもしれないと思わせる圧倒的な神の力を感じたのです。

 まずい。人々の心がイエスになびいていく。パリサイ人は強い危機感を覚えました。そうは言っても、目の前で起きた奇跡は否定できません。そこで、イエスは悪魔の頭ベルゼブルの力でいやした、実に邪悪だと声高に叫んだのです。



2、主イエスの反論

イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。(マタイ12:25~30)

主イエスは即座に、パリサイ人の批判に論理的に破綻があると指摘しました。ベルゼブルによる悪霊追い出しが行われたとするなら、内輪もめなので混乱状態が続く。あるいは、強い悪魔が再びこの人に取り付いて終わるので、いやしはありえないとしたのです。

パリサイ人の悪口、根拠のない嘘を放置すると既成事実となり、言いふらされてしまいます。主イエスは躊躇せずに反論しました。相手が宗教的権威者であっても、間違いは間違いだと主張しました。反論により、律法学者を怒らせることは承知の上です。

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31~32)

 主イエスは「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と述べ、いやしは聖霊の力によるものだと説明されました。聖霊に逆らうなら、それは、自分をいやす方の手を跳ね除けることになります。救われる道を自分で拒絶する行為です。それが、聖霊に逆らう罪は赦されないという意味なのです。

 この厳しい言い方の背後に、主イエスの愛が見え隠れします。主イエスを悪霊呼ばわりしたパリサイ人にも、滅びないようにとの忠告をしているのです。悔い改めるなら赦されるという道を示しておられるのです。

 聖霊はあなたをいやす方です。聖霊の助けを謙虚に求めましょう。




2、主イエスの診断書

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:33~37)

 見えない、話せない、悪霊に取りつかれるという三重苦からいやされた人を、目の前で見てもパリサイ人は喜ぶことをしませんでした。宗教者としてありえない態度です。人間なら、いやされた人を抱きしめて、一緒に喜ぶはずです。主イエスは、彼らの人間性を厳しく責めました。「木が悪ければその実も悪い」「まむしのすえたち」「おまえたち悪い者」「さばきの日には言い開きをしなければなりません」

魂の医者であるイエスは、診断結果をパリサイ人に突きつけたのです。あなたがたは悪い木になっている。だから、何をしても悪い実しか結ばない。その事実を直視せよ。罪を悔い改めよと迫ったのです。

悪いことは悪いと言える判断力と勇気が欲しいです。聖霊の助けを受けられる謙虚な信仰を持ちたいです。付け焼刃の親切な言動ではなく、本体である私たち自身が「良い木」になりたいです。

いのりましょう。私を良い木にして下さい。良い実を結ばせて下さい。

 「良い人は、良い倉から良い物を取り出し」


 →あなたの番です
  □主イエスのような判断力と勇気を下さい □良い木にして下さい

マタイ12:15~21 くすぶる燈心


1、多くの人がついて来た

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
(マタイ12:15~17)

 主イエスが安息日にも関わらず手のなえた人をいやされました。パリサイ人は主イエスの言葉を聞き行動を見て反発を強め、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談を始めました。パリサイ人の悪巧みを察知した主イエスは、その会堂から立ち去られました。彼らとの無用な摩擦を避けるためでした。会堂を去る時、主イエスは何を考え、何を感じておられたのでしょう。

 もし、あなたが、主イエスの立場だったら、その後の立ち振る舞いをどうしますか。パリサイ人を刺激しないように、安息日に人をいやす事を止めると考える人も多いでしょう。ウィークデイにも、病人を治す行為を控えるかもしれません。誰もが命は惜しいものです。

「すると多くの人がついて来た」とマタイは書きました。主イエスと行動を共にしていたマタイは、会堂を出た後に起きたことを目撃していました。この記述の流れを自然に受け止めれば、同じ安息日に、会同から出て来た主イエスの後に多くの人々が続いたことになります。

あなたが、その日、道端に立っていたとしましょう。主イエスの後を歩く人々の様子を見ていたなら、何を感じるでしょう。私なら涙が出てきます。

多くの人とは、生まれつきの障がい者と直る見込みのない病人だったはずです。取るに足らない人たち、やっかい者、無駄飯食い、邪魔者、生きる価値などないと一方的にレッテルを貼られてしまう人々かもしれません。ヒットラーなら全員ガス室送りです。

足を引きずっている人もいたでしょう。担架に乗せられた歩けない人もいたでしょう。余命宣告を受けた人、臨終を迎えた人。誰かに助けられてやって来た盲人。ひどい皮膚病を全身にわずらった人。
体だけでなく、心が病んだ人もいたでしょう。私など生きていてもいなくても同じだと落胆した人。愛する人を失った人、夢がかなわなかった人、失敗した人。大きな罪を犯した人。そういう人も加わっていたかもしれません。

折れてしまった人、今にも消えて滅んでしまいそうな人、それがこの人々でした。

これらの人々は、主イエスのうわさを聞いて、心に明かりが灯ったのです。きっと治していただけると信じるようになったのです。

主イエスは、こうした人たちを見捨てません。安息日に病人をいやしたら、パリサイ人の怒りをかい殺害されると分かっていても、主イエスは一人一人をいやしました。これが主イエスなのです。

大丈夫、直るよ。あきらめなくていい、やり直せるよ。あなたが必要だ。あなたには価値がある。わたしはあなたを、そのままで愛してる。自分で自分に「私はダメだ」とシールを貼ってはいけない、あなたは大丈夫だと主イエスは言われるのです。

ただし、直った自分をみせびらかしたりしない、主イエスのことを吹聴しないようにと念を押しました。パリサイ人を無用に刺激したくなかったのです。

あなたは、今日の聖書の箇所のどこにいますか。

「すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし」(マタイ12:15)



2、イザヤの預言が成就した

「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。」
(マタイ12:18~21)

主イエスのこのような姿を見て、マタイは約700年前のイザヤの預言が成就したと確信しました。それで、イザヤの言葉を引用しました。この聖句は、4つの福音書でもマタイだけが用いている箇所です。主イエスの姿がイザヤの預言と重なったのです。

 預言者イザヤによると、まことの救い主は、父なる神がもろ手を上げて喜ぶ人だと言っています。見なさい、この人こそわたしが愛し信頼する者だと父なる神が言われる人です。
 言い争ったり戦争をして権力を握るタイプの救世主ではありません。大きな声で選挙演説をして口だけで人気を集める人でもありません。ユダヤ人から嫌われ見下された異邦人にさえ救いの手を伸ばす方です。異邦人は主イエスに望みをかけるのです。

 本当の救い主は、折れそうになった葦のよう人や芯がだめになって消えそうなランプのような人を思いやり、支え、力づけ、新たな希望を与える方です。
 折れそうな葦、消えそうな燈心は、最も弱い存在を示します。人々が見向きもしないもの、価値のないものです。主イエスは、そうした人々に目を留め、生き返らせ、輝かせてくださる方なのです。

 「彼はいたんだ葦を折ることもなく、
くすぶる燈心を消すこともない、
公義を勝利に導くまでは。
異邦人は彼の名に望みをかける。」(20~21節)

 「辛い」という漢字を「幸い」という漢字に変える方法があります。辛い自分の上に十字架を乗せると幸福の幸の字ができます。辛いとき、主イエスを見あげるなら幸いが来るのです。自分などダメだと考えてつぶれそうな時は、主イエスをあなたの上に置いて下さい。

 →あなたの番です
  □主イエスは人々をいやし、私をいやされた
  □いたんだ葦、くすぶる燈心は生き返る

マタイ12:9~14  迷いなく癒す

 主イエスはパリサイ人たちによって安息日論争に引きずり込まれました。ご自分が安息日の主であると宣言された後、そのパリサイ人の根拠地の会堂にあえて入って行かれました。


1、パリサイ人の罠

イエスはそこを去って、会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。(マタイ12:9~10)

 片手の不自由な男性が会堂にいました。偶然だったのでしょうか、罠だったのでしょうか。パリサイ人は彼を例に取り上げて、主イエスに議論をしかけました。

安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」

安息日に仕事をしても良いとの証言を主イエスから引き出し、神の律法に逆らったとしてユダヤ当局に訴えようとしていました。実際に安息日に病人をいやす行為をさせれば、もっと強力な証拠になります。



2、羊は助ける

イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」(マタイ12:11~12)

 主イエスは、イエスかノーで最初答えません。質問には質問で答えました。
 羊を一匹しか所有していない人は貧しい人です。そういう人は、羊を家族のように大切にします。だから、羊が穴に落ちたら、すぐに助けあげるでしょう。同じ境遇なら誰でも同じことをします。たとえ安息日でも、ほとんど自動的に抱き上げるでしょう。

 安息日には何をしたらよいのでしょうか。それは、良いことです。神が喜んで下さる良いことをするのです。

「安息日に良いことをすることは、正しいのです」



3、安息日には、良いことを

それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。(マタイ12:13~14)

パリサイ人は意見の違う人を黙らせようという人々です。自分たちの立場を危うくする人物はどのように殺害するかを考える人々でした。一方主イエスは、意見の違うパリサイ人とも、きちんと議論します。また、議論をしただけで終わらせず、苦しんでいる人を実際にいやします。

いやす時には迷いがありません。いつものように、直します。苦しみ人、悲しむ人をほおっておけないのです。パリサイ人が見ていても治します。パリサイ人が見ていなくても、いやします。態度には一貫性があり、躊躇がありません。主イエスは、そういう方です。

安息日に人をいやしたら自分の立場が危うくなると主イエスは知っていました。それでも、いやしました。福音書全体を見ると、今回の出来事を含めて5回、安息日に人をいやしています。

①18年間腰の曲がっていた女性をいやす。(ルカ13:16)
②水腫をわずらっていた人をいやす。(ルカ14:4)
③エルサレムのベテスダの池で、38年間病気の男性をいやす。(ヨハネ5:9)
④シロアムの池で、盲人をいやす。(ヨハネ9:14)
⑤会堂で、手の不自由な人をいやす(マタイ12:13)

この箇所を細かく見て行くと、主イエスの愛、主イエスの勇気、主イエスの行動に圧倒されます。首都エルサレムでも実行している事から、殺されることは覚悟の上の行動とも取れます。

人を救うためなら、ルールの逸脱もいとわない。良いことなら、いつでも、どんな場面でもする。伝統的には、安息日には人をいやしてはいけないという人間の作ったルールが幅をきかせていましたが、主イエスは人々注視の中で、堂々とやってのけました。その姿は、人々を勇気づけたことでしょう。

安息日は、お互いを監視するための日ではない。安息日にいやすことは神の律法にかなうと主イエスは伝えたかったのです。安息日に良いことをすることが、父なる神の喜びだと示したかったのです。

昨年12月22日(土)午前8時ころ。ミルウォーキーで勤務中の女性バス運転手は、反対側の歩道を歩くよちよち歩きの赤ちゃんを見つけ、バスを緊急停車させ自分が降りて、赤ちゃんを保護、911に連絡しました。救急隊が来るまでバスを走らせずに、氷点下の道を歩いていた子を温めるために抱きしめていました。乗客5~6人も文句を言いません。
自分がバス運転手だったら、どうしただろうと考えます。

安息日は、良いことをする日です。
私たちも主イエスの考え方と行動に習いましょう。
迷いなく、いつものように、良い事ができる人になりたい。そう思います。

「安息日に良いことをすることは、正しいのです」


→あなたの番です □安息日は、良いことをする日
 □議論で終わらせず、行動する

マタイ12:1~8  安息日の主

 パリサイ人は主イエスをねたみ、事あるごとに訴える口実を見つけていました。パリサイ人のデマ、悪口、嘘、詭弁を主イエスは放置しませんでした。悪い情報を放置しておくと既成事実のように拡散されてしまうからです。
12章はパリサイ人と主イエスの議論がまとめられています。こうした摩擦を通しても、主イエスがどんな方なのかが浮き彫りにされていきます。


1、パリサイ人からの批判

そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(マタイ12:1~2)

律法学者パリサイ人は、主イエスと弟子たちの行動をスパイのように探っていました。ある安息日、十二弟子はひもじくなり、歩きながら穂を摘んで、籾殻を外し、硬い実を口に入れてお腹の足しにしました。
それを観察していたパリサイ人は、律法違反だと主イエスを責めました。収穫と脱穀という仕事をしたとみなされたのです。重箱の隅をつつくとはこのようなことです。

パリサイ人を反面教師として、職場や学校や家庭の自分の姿を見直しましょう。自分より後輩・若い・優れた人に嫉妬していませんか。些細な欠点を指摘して意地悪していませんか。

神が教えて下さった律法はシンプルで、基本中の基本は十戒です。安息日には仕事をしてはならない(出エジプト20:10)という十戒の規定を弟子たちが破ったことになるのでしょうか。主イエスは、弟子たちの行動が律法違反と考えません。

律法学者らは、律法を守るための613の細則を作りました。安息日に歩いて良い距離は片道約900m、持ち上げてもよい重さは干しイチジク程度などと細かく規定しました。現在でも、イスラエルのホテルは安息日モードのエレベーターがあり、ボタンを押さなくても各階で自動で開閉します。

神が安息日を造った目的が何であったのか、神の本来の意図を理解すれば、枝葉の議論に入ることも、お互いが監視する必要もありません。
安息日は、礼拝する日です。男性が日常の仕事を止め、女性たちも料理、家事、育児から完全に開放され、休めます。父親は妻や子供たちと一緒に過ごします。
礼拝と休息と家族との語らい。それが安息日の目的です。安息日によって、人は生き方のリセットができるのです。



2、主イエスの反論

しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。(マタイ12:3~6)

 主イエスは、ダビデの例と安息日に働く祭司の例をを取り上げて、反論されました。
ダビデがサウルに追われていた時、祭司以外は食べてはならないパンを祭司から分けてもらって食べました。(第1サムエル21:1~6)ダビデに神の罰は下りませんでした。

 祭司たちは、安息日なのに神殿で働きます。安息日に労働することは厳に禁じられていますが、祭司の場合は例外として働くことが認められています。

 安息日の本来の趣旨をきちんと受け止めているなら、些細な点は問題ないのです。



3、「安息日の主」の意味

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」(マタイ12:7~8)

 パリサイ人は「罪のない者たちを罪に定め」た、と主イエスは断言されました。十二弟子は律法を犯していません。律法の細かい規定を守ったか、守らなかったか、という顕微鏡的な批判は無意味です。

いけにえより、神はあわれみを好む方だという旧約聖書の言葉(ホセア6:6)を主イエスは引用され、神の意図を説明されました。あわれみという言葉は、新改訳聖書2017では、「真実の愛」と訳されています。主イエスは真実の愛で私たちを愛してくださっています。私たちも、真実の愛で神を愛します。私たちと主イエスの関係が真実の愛によって相互に深まっていくなら、安息日律法に違反することはあり得ません。

 「人の子は安息日の主です」
 
 「人の子」は、詩篇などでは、人間と同じ意味で使われています。一般の人が、主イエスのこの発言を聞いたなら、ご自分を低くされた謙虚な方だと感じたかもしれません。
 もう一方で、旧約聖書の預言書で用いられる専門用語としての「人の子」があります。この場合の「人の子」はメシヤの呼称です。「人の子」は神の遣わされる救い主です。また、終わりの日に世界をさばく主です。
主イエスは大胆に、ご自分が主であると宣言しておられます。実に大胆で、確信に満ちています。安息日が作られた目的は主イエスにあると公言されています。パリサイ人たちはきっと怒り心頭に達したと思われます。

主イエスが安息日の主であるという意味を説明してみます。
安息日に礼拝すべき方は、主イエスである。
安息日に、真の休みを与えて下さる方は、主イエスである。
安息日が作られた目的は、主イエスにある。
主イエスを神の御子として受け入れ、安息日に主イエスを見上げればすべては満たされるのです。To get the son, get everything.

 「人の子は安息日の主です」

 →あなたの番です
  □重箱の隅をつつく批判を止めよう
  □安息日を本来の安息日に取り戻そう
□主イエスこそ、安息日の主です
  

マタイ11:25~30  疲れた人よ



1、神の知恵

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。(マタイ11:25~27)

 主イエスは、十二弟子を二人ずつ派遣した時に注意事項を与えました。また、獄中のバプテスマのヨハネを励まし、人々の前で彼を賞賛しました。奇跡を見ても心を動かさない町々に警告も与えました。
 その後、今までの伝道の働きを振り返り、父なる神の方法に感嘆の声を上げました。

「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」

人が知っておくべき真理は多くありません。神がおられる。神が私たちを造り、愛して下さっている。人間には罪がある。イエスは私たちを罪と滅びから救うお方である。それらの真理は、理解が難しいのではなく、謙虚になって主イエスのもとに行かないと見えない真理なのです。傲慢なままでは見えません。むしろ、見えないように幕がかけられてしまうのです。

 本当の真理は数学の公式のように血の通わない無機質なものではありません。神という生きた人格とつながることによって伝わる命のようなものです。
 謙虚になって主イエスの所に行きましょう。真理がいつのまにか、心の中で生きるようになります。


2、疲れた者へ

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
(マタイ11:28~30)

 「今日はしんどかったけど、やり遂げた。良く働いたな」という大工さんは夕食をおいしく食べられます。心地よい疲れは満足をもたらします
 サッカーの日本代表選手に選ばれた若者がいたら、その重荷でつぶされることはありません。えらばれた事を光栄に感じ、一層努力するでしょう。自分が夢見た責務は喜びです。

 けれども、奴隷労働のように働かされている人、非人間的なプレッシャーをかけられている人は、疲れと重荷でつぶれてしまいます。体も心も破壊されてしまいます。

 疲れと重荷でつぶされそうな時は、どうしたら良いのでしょうか?

①原因を見つける=問題要素を分解して、解きほぐす
②慰めをもらう=誰かに事情を話し共感してもらう

③具体的な救出=誰かに助けてもらう、休養を取る、転居・転職する

④立ち向かう=刷新された心を持ち、具体的対策を講じ、問題を乗り越える
 
 主イエスはこう言われました。
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 まず、主イエスの所に行きましょう。主イエスの所に行き、どんな疲れなのか、どんな重荷なのかを祈りによって伝えましょう。話す中で原因に気がつきます。問題の要素を分けて考えられます。主イエスは、あなたの悩みと辛さを分かって下さいます。「わたしがあなたを休ませてあげます」と主イエスは約束しておられます。
 
 一人で問題につぶされないようにして下さい。主イエスのくびきを負うならば、主イエスから学ぶことができ、心が強められ、愛の行動が身に付き、試練に立ち向かう勇気が与えられます。

 「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(28節)

 くびきとは木の道具で、メガネのフレームを大きくしたようなものです。二匹の牛が頭を入れるようにできています。農作業をしたり、荷車を引く時に、二頭の牛が同じスピードで前に進めるようにするものです。
 くびきの片側に主イエスが頭を入れるので、もう一つに頭を入れてごらんと主イエスは言っいます。同じくびきに入っているなら、疲れ切って倒れそうな場面でも、主イエスが力を出してくれるのであなたは休めます。重荷で打ち負かされそうな時も、主イエスがリードしてくれます。主イエスと二人なので問題から逃げることなく前に進めます。これが、主イエスを信じる者の人生です。主イエスと共に歩むので、主イエスからたくさんの事を学べます。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」主イエスと一緒なのでたましいに安らぎがあります。「そうすればたましいに安らぎが来ます」

「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」
(イザヤ28:12)

「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。」(詩篇68:19)

主イエスのもとに行きましょう。真理に生かされます。主イエスのくびきに頭を入れましょう。疲れと重荷は去り、主イエスから学び、前進することができます。

 主イエスと二人三脚の日々を送る人は、その人自身も小さなくびきを作り、倒れそうな人をそこに招くようになります。主イエスにしてもらったように、誰かを励まし支えることができます。

 →あなたの番です
  □主イエスの所に行こう。真理が見える。  
  □主イエスのくびきに頭を入れよう。いやされ、前進できる。
  □あなたも誰かを支え励まし助ける人になろう