コロサイ3:15 感謝の心


 あなたは感謝する人ですか。感謝しにくい人です。

102人の乗客を乗せたメイフラワー号がアメリカに到着したのは1620年11月でした。(1620年と言えば日本では江戸時代です)2か月の困難な航海を終えてやっと新大陸に到着しても、極寒の地で家を建てるのは不可能、船での生活を続けました。翌年の秋にやっと収穫を祝いましたが、最初の感謝祭は単純な収穫感謝にはならなかったと私は思います。なぜなら、冬から春にかけて、乗客の半数は飢えや病気で死んでしまったからです。
感謝とは、すべてがうまく行く時にするものとは違うように思えるのです。

アメリカに住む人は若い頃を思い出して下さい。おばさんから500ドルで譲ってもらった古い車すら感謝したはずです。お父さんという厳しい教官のいない車で一人、フリーウエイを飛ばした日には開放感と大きな感謝に満たされたはずです。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」(コロサイ3:15)

 新約聖書には何度も「感謝」という用語がでてきますが、おもに2つの使い方が出てきます。第一に、感謝している状態。第二に、感謝を命じる言葉です。

 パウロは、問題の多いコリント教会のことを覚えて祈る時、感謝していました。(第1コリント1:4)ペテロは、エルサレムで信仰ゆえに捕えられ、釈放されて戻った時に神を賛美していました。主イエスは5000人の人に食べ物を与えたいと願われた時、5つのパンと2匹の魚しかない現実に気づかれました。主イエスがしたことは、感謝でした。(ヨハネ6:11)
 
私たちの人生は、悲しい事、思い通りに行かないこと、疲れきってしまう事の連続です。だから、感謝は簡単ではありません。だから、聖書は感謝しなさいと命じるのです。

ハワイで100歳過ぎのおばあちゃんと話した事を今も忘れません。「長生きしてよかったね、おばあちゃん」と私が言うと、「そうじゃないんだよ、わしよりも先に息子が死んでしまって悲しいよ」と息子の写真を出して見せながら涙をしきりに流していました。

去年の夏、私の父は寝ている間に心臓発作で亡くなりました。知らせを受けた電話口で、私の心が崩れる体験をしました。でも、長期間の入院をしなかった事を感謝できました。

ローマ1:21や第2テモテ3:2を見ると、神を知らない人の特徴が感謝しない事だと分かります。ならば、神を信じている者の特徴は感謝に違いないのです。
本を読んでいて重要なフレーズに出会うとアンダーラインを引きます。感動する言葉に出会うと黄色のマーカーで印を付けます。私たちの人生という本にアンダーラインを引くこと、それが感謝なのです。忘れないようにする作業です。主は生きておられると、賛美する行為です。

私が若い牧師の頃、素晴らしいクリスチャンの女性Nさんに出会いました。Nさんの口癖は、「感謝ね」です。3人の小学生のお母さんで、伝道熱心な方でした。近所の人が悩みを持つと彼女の所に行って話を聞いてもらいました。Nさんは、悩む人の話を残らず聞き、慰め、主イエスを伝え、最後には、相談しに来た人が感謝を見つけて帰ることができました。Nさんが開く家庭集会にはたくさんの方が毎回集まっていました。
そんなNさんが癌になり、つらい治療をすることになりました。入院すると、同室者の仲間にイエスさまを伝え、43歳の若さで天に召されました。今も、私は、Nさんの口癖「感謝ね」を思い起こすと心が温かくなります。

今日は、感謝祭の礼拝です。どんなにつらい一年だったとしても、感謝な事を今3つ見つけて下さい。それは、ちょうど、荒れ狂う川に橋を架ける作業に似ています。人生の悲しさ、辛さという強い流れで翻弄されそうになりますが、感謝すると、それが、明日への希望の橋の橋げたとなるのです。毎日をサンクスギビングに!

→あなたの番です
 □感謝なことを3つ思い出しましょう
 □主に感謝し、身近な人に感謝の言葉を伝えましょう


第1サムエル27:1~12 仮の姿


 今のあなたは、仮の姿ですか。
 自分が選んだ道なのに、失敗したと内心では思っていませんか。

1、ダビデらしくない

ダビデは心の中で言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」そこでダビデは、いっしょにいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。(第1サムエル27:1~2)

 突然のように、ダビデはサウルに滅ぼされることを極度に恐れてしまった。サウルから逃げる方法を一生懸命考えたが、いつものように主に祈って導きを求めることをしなかった。
 大切な事を祈らない。導きを求めない。そういう事が起きる。それは、自分の計画を押し通す時、無意識に私たちが行うことだ。祈らないことが、主のみこころに沿わない道への入口になる。

 預言者エリシャも恐れを知らない信仰の巨人だったが、ふとしたことからイザベルを恐れて荒野に逃げたが、状況は良く似ている。恐れはある時、急にリアリティーを持つ。

ダビデが思いついた作戦は、ペリシテ人の地に逃げ込む奇策だった。現代風に言えば、亡命だ。ダゴンの神を礼拝する国であっても、サウルが追ってこない場所なら目をつぶろうと考えた。事実、サウルはダビデを追うのをあきらめた。(4節)

 ダビデはアキシュの部下となることを申し出て、認められた。いわば、仮の姿となった。アキシュはペリシテ人の領主の一人、海岸の町ガテの王。アキシュはダビデを信頼し、他のペリシテ人の領主の前でダビデを弁護する者となった。(29:3)ダビデは、ガテの東、ジフの荒野の南西にあるツィケラグという町をアキシュから与えられ、そこに住んだ。(5~6節)

 ダビデは、アキシュの保護を受けたのだから、貢物を差し出す義務がある。600人の部下も養わなければならない。妻アビガイルが連れてきた多数の羊やヤギも十分ではなかった。
そこでダビデは、ユダヤ人に好意的な町を攻撃したように見せかけ、アキシュをだまし(12節)、南の砂漠地帯のネゲブに住む遊牧民の一団を皆殺しにし、財宝や家畜をアキシュに差し出した。(7~11節)そんな仮の姿を1年4ヶ月も続けることになった。

ネゲブに住む遊牧民はユダヤ人の敵となる事もあったが、この場合、ダビデの都合で一方的に攻撃をしかけ、一般市民も皆殺しにした。
神の戦いを戦っていたダビデではなく、山賊となんら変わらなかった。「いつも、このようなやり方をしていた。」(11節)と記録されたが、仮の姿が普通の姿になりつつあった。


2、私にとっての「サウル」

 あなたは、仮の生活をしていますか。
 強いられた仮の姿ではなく、あなたが選んだ結果の仮の生活です。

 1)アキシュに対する嘘 2)ネゲブの遊牧民を襲う残虐さ 3)主への信頼欠如 という3つの問題を抱えたままダビデは突っ走っていた。
 主からの警告は1年4ヶ月、何もなかった。だから、問題がなかったのではない。30章では大きな問題が起きるが、仮の姿のつけは必ず払うことになる。

私たちの場合を考えてみよう。私たちが恐れているサウルとは、何だろう。

お金がない。住む場所がない。通う学校がない。世間体が悪い。結婚したい。仕事がほしい。これらの目の前に差し迫った必要事項がとても大きく見え、恐怖に押しつぶされることがある。
すると、ダビデのような愚かな行動を取ってしまう。たとえば、かなり問題のある仕事、転居、結婚、生活スタイルを選んでしまう。すっきりしない心を抱えたまま、惰性でそれを続けてしまう。やがて、生活にきしみが出て、ほころびが現れ、抜き差しなら無い現実に出会う。

以下のような場合、あなたはどうしますか。
 日曜日に働くシフトの仕事しか見つからなかった。
 安いルームシェアを見つけたが、麻薬のにおいのする男女が夜に出入りするアパートだ。
 失恋した直後に出会った人がとても優しかったので、出会って1か月で結婚の予定だ。
 単身赴任か、家族みんなで転居か、あまり話し合っていない。
 会社のお金を使い込んでしまった。

 ダビデのような失敗をしないための大事な鍵は、優先順位だ。主を第一にする優先順位にするならば、冷静な判断ができる。なぜなら、旧約聖書も新約聖書も、主を第一にするなら主が道を整えて下さるという約束があるからだ。

 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:5~6)
 
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:33)
 

 あなたを圧迫するような何かがやったと感じても、あせらないことです。即断しないことです。主イエスならどうするだろう。尊敬しているあの信仰者ならどうするだろう。本当に悔いのない決断は何だろう。主と、あなたが最も愛する人々の最善を考えたなら、おのずと、優先順位が見えてきます。プライオリティーが分かったら、静かに祈り、主を第一として、為すべきことを淡々と行って行きましょう。

→あなたの番です。
 □あなたはどんな「サウル」を恐れていますか
□あなたは今、仮の姿ですか
 □健全な優先順位とは何ですか


 

 

第1サムエル26:1~25 主は彼を打たれる


 中学時代、腹が痛くなり医者に盲腸と診断され、すぐ手術になり、数日で退院できました。この経験は、私にとって驚きでしたが試練とは言えませんでした。
 では、試練とはどんなものでしょう。

1、繰り返すから、試練

ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているではありませんか。」そこでサウルはすぐ、三千人のイスラエルの精鋭を率い、ジフの荒野にいるダビデを求めてジフの荒野へ下って行った。サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道のかたわらに陣を敷いた。一方、ダビデは荒野にとどまっていた。ダビデはサウルが自分を追って荒野に来たのを見たので、斥候を送り、サウルが確かに来たことを知った。(第1サムエル26:1~4)

 ジフ人がサウル王の所まで出向いてダビデが近くに潜んでいると密告しました。サウルは、それを好機とみなし3000人の精鋭と共にダビデ殺害に向かいました。
 ダビデは斥候を送り、確かにサウルが来ていることを確認しました。サウルは、洞窟でダビデに命を助けられた日のことを完全に忘れ去ったようです。

 繰り返すから試練なのです。試練とは、終わりの見えない延長戦です。他人が繰り返すがっかりさせられる事。自分が繰り返す失敗。直らない病気。改善しない人間関係。解決の糸口の見えない悩み。ひと段落ついてほっとしたのもつかの間、また同じ問題で悩まされる。これがダメージを与えるのです。最近、そんな事がありませんか。

私は、最近、左足の親指の爪の周囲が痛いです。割れた爪の横から小さな破片が飛び出し「陥入爪」の状態になり、肉を刺すのでビリッと痛いのです。若い時にも似た経験をしており、爪の手術後に左足は革靴、右足はサンダルで親指に包帯というひどい格好で結婚式にも出席したことさえあります。
今回、「サウル王、また来たか」という感じです。爪がきれいに伸びてくれる日まで痛みは私の生活の一部になりました。

「サウル王、また来たか」という現実に私たちも遭遇しますが、出口は必ずあります。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10:13)



2、主が打たれる

 アビシャイはダビデに言った。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません。」しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」ダビデは言った。「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。」(8~11節)

 ダビデは深夜、部下のアビシャイを連れて、敵軍宿営地のサウルのテントに入り込みました。主は深い眠りを敵軍一同に与えたので、ダビデらは発見されません。
(5~7節)アビシャイは今こそ好機到来、槍の一突きでサウルを殺せますと進言しましたが、ダビデは拒絶しました。
 サウルの寝顔を見て、ダビデは、「主は、必ず彼を打たれる」という確信に至りました。同じレベルの喧嘩から離れ、ダビデは一段高い場所から物事が見られるようになったのです。主がサウルを打たれるという確信の根拠は何も書かれていません。確信は主からやってきたとしか言えないのです。
 私たちが誠実を尽くしても相手に届かない場合は、主が動いてくれます。主からの確信をもらうと怒りや復讐心は霧散します。

 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)



3、誠実に生きる

 主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。」こうしてダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。(23~25節)

 もし、ダビデがサウルをその場で殺したら、何が起こるでしょう。ダビデの怒りは解消されますが、3000人の兵士と内戦状態に陥ります。ダビデも同胞のユダヤ人を殺さねばなりません。実は、主にあっては、負けるが勝ちなのです。

 サウルの水差しと槍を持ち帰り、安全な岩の上まで登ったダビデは、サウルの将軍アブネルを呼びつけ、護衛がなっていないと責めました。(13~16節)その後、ダビデはサウル王と直接語り合い、殺す意志の無いことを水差しと槍を証拠に告げました。サウル王は、ダビデの声とその行動に心を打たれ、サウルはダビデを追うことを止めました。

 「主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。」ダビデは、終始、主の前で誠実に行動しました。「私があなたのいのちをたいせつにしたように」ダビデは敵であるサウルの命も大切に扱いました。

 繰り返しの試練の中で、ダビデのように、あきらめない人、誠実な人、温かい人にしていただきましょう。

→あなたの番です
 □先が見えず、繰り返すから試練
 □復讐はしない
 □主よ、しなやかで、温かい心を下さい

 

第1サムエル25:1~44 アビガイルの機転


 ダビデは完璧な人間ではない。激高すれば、行き過ぎた復讐心を持つ。
 聡明な女性アビガイルは、そのダビデを落ち着かせ、心を主に向けさせた。

1、愚かな男、ナバル

マオンにひとりの人がいた。彼はカルメルで事業をしており、非常に裕福であった。彼は羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。そのころ、彼はカルメルで羊の毛の刈り取りの祝いをしていた。この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。(第1サムエル25:2~3)

 ナバルとアビガイルの夫婦がカルメルにいた。カルメルとは、預言者エリヤで有名な北部の山ではなく、この場面ではヘブロンに近い山岳地帯を指す。ナバルは家畜を多数保有する富豪だったが頑迷で行状の悪い男で、妻のアビガイルは聡明で美人だった。

ダビデはナバルの羊の群れに危険が及ばないよう保護してきた。羊の毛の刈り取りの季節がやってきたので、ダビデは祝いの言葉を部下から告げさせ、セキュリティー労働に対する見返りをやんわり求めた。(5~8節)これは、ダビデ達が生計を立てる一つの方法だったのだろう。

ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」(10~11節)

ナバルはダビデを逃亡奴隷にたとえて罵倒、受けた恩を完全に無視した。それを伝え聞いたダビデは怒り、400人の部下を率いてナバル討伐に出発した。(12~13節)ダビデは完璧な人ではなかった。復讐の鬼と化したダビデを誰も止められなかった。

ナバルは男の典型だ。ナバルを鏡として自分を振り返ろう。人を見下していないか。感謝する心を持っているか。平和を作ろうとしているか。

ダビデもまた男の典型だ。思慮深く、主に頼っていたダビデだが、メンツをつぶされれば激怒する。怒りが沸騰すると、復讐の鬼となる。あなたは今、怒っていないか。あなたの大声が、周囲の人に恐怖を与えていないか。怒りの持って行き場所を間違えていないか。

器の大きな人間になろう。受けて立つのが横綱相撲だ。


2、聡明な女、アビガイル

 アビガイルは牧童から事の顛末を聞いた。(14~17節)彼女の聡明さは、問題解決能力と他者に主を見上げさせる信仰姿勢に表れている。

1)解決力

 そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。(18~19節)

多くの人は、起きてしまった過去の問題を嘆き、他人や自分や運命を責め、身動きが取れなくなる。けれどもアビガイルは未来に焦点を当てて行動した。つまり、問題が解決した時のイメージを持っていたのだ。用意した食料がダビデの期待したセキュリティー請負費に見合うものとなり、ダビデが満足している様子が見えていた。

アビガイルはダビデを見るやいなや、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した。彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「ご主人さま。あの罪は私にあるのです。どうか、このはしためが、あなたにじかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばを聞いてください。」(23~24節)

「あの罪は私にあるのです。」アビガイルは、問題を夫のせいにしなかった。自分の問題として主体的に引き受けた。剣を帯び、殺気立った兵士らの前にひれ伏すアビガイルは見事です。

解決力とは何でしょう。問題の本質を見抜く洞察力、未来志向、主体性、具体的な行動、他者に助けを請う謙虚さ、勇気、これらの総和が解決力です。アビガイルは、ちょっと「できすぎ君」かもしれません。平均的な人間とは、弱さを抱え、意気地なしで、後ろ向きです。私もその一人です。

シャルル・ペローという人を知っていますか。フランスの物語作家で、「眠りの森の美女」や「美女と野獣」などの作者です。「愚かな願い」という話はペローの作で、こんな筋書です。
貧しい木こりの夫婦がいました。一本の木を切り倒さなかったことで、妖精が3つの願いをかなえると約束しました。奥さんが「大きなソーセージが食べたい」とつい口に出すと、見たこともない大きなソーセージが現れます。夫がそれを見て怒り、愚かな願いをしたもんだ、そんなソーセージはお前の鼻にくっついたてしまえと言いました。3つ目の願いは、それを元に戻して下さいというものでした。
この木こりの夫婦は、ごく普通の夫婦です。もし、夫が怒らずに、一緒に楽しくソーセージを食べて楽しみ、二つ目の願いは夫が考え、3つ目の願いを二人で話し合えば良い結果になったはずです。

アビガイルほとのスーパー聡明な人にはなれませんが、少し忍耐を持ち、主から知恵を与えて頂けば、打開策はあるはずです。あきらめないで、主に期待しましょう。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)


2)人の心を神に向ける

アビガイルは、激高しているダビデを冷静にさせ、神を見上げる心を取り戻させました。ここに彼女の聡明さが表れています。

 今、ご主人さま。あなたが血を流しに行かれるのをとどめ、ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられた主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。(26節)

「ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられた主は生きておられ」とアビガイルは語りました。プライドを傷つけられたダビデは残虐な復讐をする可能性がありましたが、神がそれを止められたとアビガイルは述べました。アビガイルが止めたのではないと言うのです。

どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。(28節)

「主の戦い」という言葉は、ゴリアテに戦いを挑んだダビデが使った言葉(17:47)でした。個人的復讐は主の戦いとは呼べず、神に油注がれた王の汚点となります。「むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。」(31節)
こうしてアビガイルは、ダビデの心を落ち着かせ、主に目を向けさせることができました。

 有名なプロゴルファーが長いスランプを経験し、優勝から遠ざかったことがありました。奥さんは、夫のために祈り、みずからが悔い改め、その心が夫に伝わるようになり、7年たって復活の勝利を夫婦で勝ち取りました。

 あなたの身近な人がスランプを経験し、落ち込んだり、怒っているかもしれません。主はあなたに忍耐と知恵を与えて、あなたの祈りと存在を用いて、その人の心を主に向けさせてくれます。とても難しい働きですが、主が共におられれば可能です。



3、ナバルとアビガイルのその後

 ナバルは翌日、酔いがさめた時にダビデの襲撃の話を聞き、心臓発作か脳梗塞か分かりませんが、石のように倒れ、10日後に死にました。(36~38節)
ダビデは既にアヒノアムという妻がいましたが、アビガイルとも結婚しました。(39~44節)未亡人のアビガイルを保護するため、また、多数の家畜や資産がダビデ一行の経済基盤を支えると考えたのかもしれません。
ヘブロンに安定した地盤を得た後にダビデは、マアカ、ハギテ、アビタル、エグラなど複数の妻を持ちます。ダビデの夫婦関係は私たちの手本にはなりません。戦国時代の武将のように、縁談が近隣諸国との安全保障に貢献するという面はあったでしょうが、王が多数の妻を持つことは申命記17:17で禁じられており、後にダビデの家庭問題の火種となりました。

 さて、アビガイルに戻りましょう。
聡明さとは行動です。状況を俯瞰し、人の心を読み取り、自分ができる最善を絞り込み、主に信頼しつつ勇気を持って主体的に動き、他者に主を見上げるきっかけを与える事が真の聡明さです。
聡明さを与えて下さいと祈りましょう。

神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第1ペテロ5:10)

→あなたの番です
 □怒りは汚点を作ります。怒りを静めましょう
 □主を見上げて、問題解決に動きましょう



第1サムエル24:1~22  受け入れるか、動くか


 受け入れる事と変えるべき事。その識別力と勇気がほしい。

1、主から出たこと

彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中にはいった。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。(第1サムエル24:3~4)

 ダビデたちはエン・ゲディにいた。エンは泉、ゲディは子ヤギという意味。死海の西側の荒涼とした岩山に、奇跡のような泉があった。付近には滝もあり、洞窟も多数あった。
その洞窟の一つに潜んでいたダビデに千載一遇の機会が訪れた。目の前にサウル王が一人で現れた。家来はいない。今なら、難なく殺害できる。そもそも、ダビデがその気になれば、クーデターを起こしてサウル王を殺すこともできたはずだ。

彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。(6~7節)

 サウル王は主に「油注がれた方」であり、「私の主君」だとダビデは認識していました。サウルの上着のすその一部を切り取ったことすら後悔しました。サウルが神に油注がれた王であるということは、ダビデにとって神から出たことで、変えることのできない事だったのです。

ラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)The Serenity Prayerを知っている人が多いと思います。ダビデの心の中で、ちょうど同じようなプロセスがあったのでしょう。

The Serenity Prayer
God grant me the serenity
to accept the things I cannot change;
courage to change the things I can;
and wisdom to know the difference.

Living one day at a time;
Enjoying one moment at a time;
Accepting hardships as the pathway to peace;
Taking, as He did, this sinful world
as it is, not as I would have it;
Trusting that He will make all things right
if I surrender to His Will;
That I may be reasonably happy in this life
and supremely happy with Him
Forever in the next.
Amen.

平静の祈り

神よ、私にお与えください
変えることのできないものを受け入れる平静な心を
変えることのできるものは変える勇気を
そしてそれらを見分ける知恵を

一日、一日を生き、
一瞬、一瞬を楽しみ、
苦しみも、平安へ続く道として受け入れ、
この罪深い世を、自分の願うようにではなく、そのままに受けとめる
あの方がそうなさったように

神の御心に自らを明け渡すのならば
神は全てを善いように変えてくださると信頼しつつ
それによって私がこの世での人生もそれなりに幸せに生き
来るべき次の世ではとこしえに
神と共に最上の幸せを得るように
(中村佐知訳)

 主から出た事とは、主から発送されて私たちのところに届いた小包のようなものです。受け入れにくい事、意に反する事、窮地に追い込まれる事、場合によってはこの世を去る事も、主から出た事です。主から出たことならば、静かな心で受け入れましょう。


2、直接対面

その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ。」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている。』と言う人のうわさを信じられるのですか。実はきょう、いましがた、主があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は主に油そそがれた方だから。』と申しました。(8~10節)

 ダビデはサウル王に最高度の尊敬を示し、地にひれ伏しました。さらに、サウルを殺害する意志がないことを上着のすそを切ったことで証明しました。ダビデは、サウルと3000人の兵に殺される危険も承知の上で、直接サウルに語ろうとしました。変えることのできるものは変える勇気を持って対処しようと思ったのです。

もう追うのを止めてほしいとダビデは率直に述べました。サウルがダビデを追うことは、まるで死んだ犬や一匹の蚤(14節)を追っているのと同じなのです。

 ダビデはサウル王に直接、自分の心を披瀝しました。ダビデは、純粋で、まっすぐな心を持った人物です。遠まわしに、誰かを介して連絡しませんでした。
 人間関係のもつれが起きた時、ダビデの方法は参考になります。一番勇気がいるけど、一番話が早いのは、こじれた相手の所に直接出向き心を開いて自分の思いをぶつけることです。

 今、誰と関係がこじれていますか。相手の顔を見て、心を率直に伝えましょう。



3、泣いたサウル王

ダビデがこのようにサウルに語り終えたとき、サウルは、「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ。」と言った。サウルは声をあげて泣いた。(16節)

ダビデは勇気を持ってサウルに語り、主は直接介入してサウルの心を変えてくれました。ねたみと怒りで半狂乱だったはずのサウル王はダビデの誠実な心に触れて涙を流しました。奇跡とも思える涙です。主に選ばれた頃の純真なサウルの真心が戻ったのです。

そしてダビデに言った。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。(17~20節)

 サウルは自分の非を認め、主からの幸いがダビデにあるようにと願い、次に王になるのはダビデであると告げました。

 砕かれた魂ほど美しいものはありません。
 サウルは、うまれたばかりの赤ちゃんの皮膚のような柔らかな心を見せました。
 いくつになっても、どんな立場でも、みっともなくても、自分の非を認めましょう。私たちは不完全なので、誰かと共に生きなら必ず誰かに迷惑をかけるか、迷惑をこうむるかのどちらかです。「私はあなたに悪いしうちをした」(17節)と言える人になりたいです。
 
 自分が悪いと認めた人は、「ごめんなさい美人」です。同じように、悪かったと言える男は、「ごめんなさいハンサム」です。多くの人に好かれる人は、失敗をしない人ではなく、素直に謝罪できる人です。


「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)


バーニータという看護学生が勉強していました。クリスチャンの彼女は、主のために与えられた賜物を生かしてナースとして人々に仕えたいと願っていました。感謝祭前の火曜日、指導教官が急に言い捨てました。「あなたは良い看護師にはなれない。いつか患者を殺すだろう。来週、退学になるので覚悟するように」他の学生6人も退学処分になるとだと知りました。
感謝祭の休日、実家に戻り、双子の姉妹に事情を話しました。それを伝え聞いたバーニータのお父さんは学部長に抗議に出かけました。学部長は、そんなはずはない、詳しく調べるので休み明けに来るようにと返答しました。バーニータが翌週学校に行くと、学部長は指導教官には様々な問題があり学校を辞めていただいた、あなたは安心して学業を続けるようにと励まされました。卒業後、彼女は40年間レジスタード・ナースとして立派に働きを続けました。

受け入れる事、動いて事態を変える事、その二つを見極め、ダビデのように勇気を持って対処しましょう。その中で、主が驚く方法で介入して下さいます。

 →あなたの番です
  □主から出たことは、受け入れる
  □正面からぶつかって行きましょう
  □「ごめんなさい」と言える心が大切


第1サムエル23:1~29 仕切りの岩

 体は前向きに、心は上向きに造られている。私にはそう思えるのです。
 ダビデは、前向きで上向きな人です。


1、主に尋ねる

 その後、ダビデに次のような知らせがあった。「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています。」そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」
(第1サムエル23:1~2)

 収穫時を狙ってペリシテ人がユダのケイラを襲った。ダビデは、ケイラを助けに行くべきかを主に尋ねた。主の答えは、「行け」、だった。
 ダビデの部下は、ケイラを助けると居場所がサウルに分かり危険になるとの指摘した。もう一度主に尋ねると、やはり「行け」だった。それで、ダビデはケイラの人々を助け、奪われた穀物を荷馬車ごと取り返した。実に前向きな生き方です。

 その後、サウルがダビデの居場所を知り、ケイラに来る可能性が高くなった。それで、再び主に尋ねた。サウルは来るでしょうか。「彼は下ってくる」(11節)もう一つダビデは尋ねた。ケイラの人は私たちを守ってくれるか、それともサウル王に寝返るでしょうか。答えは、「彼らは引き渡す」(12節)でした。それで、ダビデたちは荒野に逃げたのです。主に道を聞く姿勢は、上向きです。

 その道に困難があるから、「行くべきでしょうか」と主に尋ねます。
 今の環境が快適なので、「離れるべきでしょうか」と尋ねます。

 アメリカに住む日本人は、日本に行くべきか、居心地の良いアメリカを離れるべきか、と何度か真剣に問うものです。
 主に道を尋ねることは、自分の心にある深い井戸に桶を下して、本当の願いを組み上げる作業です。主に静かに道を聞いて下さい。
 

2、神の御名で励ます友

ダビデは、ケイラの人々から平和に離れました。怒りもせず、報復もせず、静かに部下を撤退させました。サウルなら皆殺しの場面ですね。

 サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」こうして、ふたりは主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。(16~18節)

そんな時です。ヨナタンが突然訪問してきたのは。ダビデが意気消沈した時に親友がやってきたのです。友、遠方より来る、楽しからずや、です。

落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。(ヨブ記6:14)

 良き友は、落胆した友のそばに出掛けていくものです。
 信仰の友は、神の御名によって励ます者です。神の視点に帰らせ、神の約束と守りを思い起こさせてくれる事が、神の御名によって励ますとことです。
 
 あなたも、良き友として、また、信仰の友として、友の傍らに行こう。


3、主の助けがある

 サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃げようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕えようと迫って来ていたからである。そのとき、ひとりの使者がサウルのもとに来て告げた。「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に突入して来ました。」それでサウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人を迎え撃つために出て行った。こういうわけで、この場所は、「仕切りの岩」と呼ばれた。(26~28節)

 サウルの全軍は3000人程度、ダビデは600人。互いに同じ山の反対側を進んでいて、もう少し進めば両者は対面し、ダビデたちは全滅したことだろう。
 パレスチナ南部の荒野は、夏は雨が一滴も降らず、カラカラに乾く。雨は冬にだけ降るが、雨の流れが岩を削り、ワジという川を作り、深い谷を刻んでいた。だから、一つの山の向こうとこちらにいても敵の姿は見えないし、岩山は急斜面のため容易には上れなかった。
 サウルが、ほぼ全軍をダビデのもとに向かわせたことをペリシテ人は察知し、手薄な都市部を攻撃してきた。その知らせを受けると、サウル王はすぐに戻った。
 ヘリコプターから見下ろせば、ダビデとサウルがまもなく鉢合わせするのは分かったはずだ。主は、高いところからこの場面を見ておられて、ギリギリのタイミングでダビデを救われた。

 ラッキー!なのではない。主の守りがあったのだ。23章で鍵になる言葉は14節です。

 ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。(14節)

 「私の父サウルの手があなたに及ぶことはないからです。」(17節)とヨナタンが語った言葉は、14節の真実さを確認させてくれる言葉だ。

 自殺未遂をしたある女性は病院で目覚めてこう言ったそうです。「あれだけたくさん切ったのに死ねなかった」。
 考えてみてください。体は簡単には死なないように造られたのです。体はあきらめないのです。出血すると、脾臓が収縮、アドレナリンが出て、毛細血管も収縮します。空気に触れれば、血液内の物質が凝固して傷をふさごうとします。あなたが危険にさらされると、普段さらさら流れている血は、あなたを守るため自分を殺して固くなるようにして傷口をふさぐのです。
 神は、あなたが危機に陥ってもあきらめません。サウルのような存在があなたを襲っても、主た守って下さるのです。何度も危機がやって来ても、「神はダビデをサウルの手に渡さ」ないのです。

 ロナルド・ピンカートンさんは、クリスチャンです。彼がパラグライダーで上空1200mを飛んでいた時、突風が吹き、一気に100mの高さまで落ちました。今までで経験したことのない風で、コントロール不可能でした。ちょうど右下2mのところに小型の鷹が同じように強風に苦労して羽をバタつかせていました。風は収まることがなく、為すすべがありません。すると鷹は、地面に向けて真っ逆さまに進路を取り、急降下しました。自分の力も経験も知識も通用しないと悟ったロナルドさんは鷹の後をついて行くと心に決めました。地上30mほどになって、温かい上昇気流がどこからともなく吹きあげて、鷹もロナルドさんも助かりました。

 行き詰っても神に信頼しましょう。人間の絶望地点こそが、神の上昇気流の始まるポイントです。私たちの「仕切りの岩」はすぐそこにあるのです。神に栄光あれ。

 →あなたの番です
  □危険な時、困った時、神に道を尋ねよう
  □神の御名で励ます友になろう
  □プロテクトしてくれる神に信頼しよう


第1サムエル22:1~23 ドエグと虐殺


 人生は意外性の連続で、思った通りには進まない。
 ダビデも、きっとそう考えたはずだ。

1、大所帯

ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。(第1サムエル22:1~2)

サウル王がダビデ殺害を画策しているので、ダビデの親族にも危険が及ぶだろう。ダビデの兄たちや両親や実家の人々がダビデのもとに来て一緒に住むのは当然の成り行きだった。
 サウル王が嫌いだという不満分子や生活苦や借金のある者も多数ダビデの所にやって来て、エルサレムから南西20マイルのアドラムで合計400人の大所帯に膨れ上がった。

 この人数ではサウルの目をごまかせないし、両親や親族の安全が気になる、彼らを養わないといけない。そこで、死海の東側にある隣国モアブの王に援助を求めた。モアブは、ダビデの曾祖母ルツの出身地。一時的な保護を受けたが、預言者ガドの忠告に従い母国に戻った。(3~5節)

 人生は想定外の連続だ。孤独な逃亡者のはずが、400人の大所帯のリーダーとなった。この経験は、一国の王となるための準備とみなすこともできる。
 今日の想定外な出来事は、明日のあなたを必ず作る。理不尽と思える経験さえも、私たちの器を広げてくれる。


2、祭司アヒメレク一族の悲劇

 ドエグはエドム人。エドムは南の国で、ドエグは恐らく戦争でイスラエルの捕虜となったが、腕力の強さを認められサウルの兵士になったと思われる。ドエグは、ダビデが祭司アヒメレクの所に逃げた場面を目撃したので(21:7)サウル王に知らせ、祭司アヒメレクと親族の祭司たち全員がサウル王の前に呼び出された。(22:11~16)

アヒメレクは王に答えて言った。「あなたの家来のうち、ダビデほど忠実な者が、ほかにだれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛の長であり、あなたの家では尊敬されているではありませんか。私が彼のために神に伺うのは、きょうに始まったことでしょうか。決して、決して。王さま。私や、私の父の家の者全部に汚名を着せないでください。しもべは、この事件については、いっさい知らないのですから。」しかし王は言った。「アヒメレク。おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全部もだ。」(14~16節)

 ダビデに食物と武器を与え逃亡を助けた、とサウル王は祭司アヒメレクを厳しく非難した。祭司アヒメレクは潔白を主張した。ダビデは王に忠誠を誓った兵士長であり、王の婿であり、支援するのは当然だと述べた。

 サウル王は、祭司アヒメレクの言葉に耳を貸さず、死刑を宣告するも、側近の近衛兵ですら、誰も命令に従わなかった。(16~17節)そこでドエグが、祭司ら85人を虐殺。祭司たちの町ノブにいた男も女も子供も家畜も皆殺しになった。(18~19節)

 サウル王は、愚かな独裁者がたどる轍を進み始めた。私たちがサウルを非難するのは簡単だが、歳をとり、経験を重ねると、サウル化する危険は誰にもある。自分に傲慢さやワンマンさがないか謙虚に振り返ってみよう。誰の意見も聞かない人なり、身近な人々を心で虐殺することだってあるからだ。


3、ダビデの態度

ところが、アヒトブの子アヒメレクの息子のエブヤタルという名の人が、ひとりのがれてダビデのところに逃げて来た。エブヤタルはダビデに、サウルが主の祭司たちを虐殺したことを告げた。ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、あれがきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ。私といっしょにいなさい。恐れることはない。私のいのちをねらう者は、あなたのいのちをねらう。しかし私といっしょにいれば、あなたは安全だ。」(20~23節)

 祭司アヒメレクの息子の一人エブヤタルだけは辛くも生き延び、ダビデのもとに逃げて来て詳細を伝えた。
するとダビデは、虐殺の原因は自分自身にあると祭司エブヤタルに述べた。「私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ。」(22節)
ダビデは責任の大きさを内心で痛感しただけでなく、きちんと言葉に表した。サウルの部下ドエグが密告する事が予想されたので、ドエグを殺害しておけば祭司ら一族は殺されなかったのだ。

 ダビデは、さらに言った。「私といっしょにいれば、あなたは安全だ。」(23節)エブヤタルを見るたびに自分の良心が痛んでも、あるいは責められても、私がエブヤタルを守ると決意した。

 自分の失敗や責任を正直に認める人に、私はなりたい。大切な人を守る人になりたい。



 ダビデは洞窟を住みかとしている時に詩篇57篇を作りました。

 指揮者のために。「滅ぼすな。」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに
神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。(詩篇57:1~2)

 <すべてを成し遂げてくださる神>を、God who fulfills His purpose for meと訳している英語聖書もある。

 ダビデは22章で、想定外の状況に立たされた。400人のリーダーとして人々に食べ物と安全を提供する必要に迫られた。サウル王の狂気とドエグによる虐殺も避けて通れなかった。祭司アヒメレクを守ると覚悟を決めた。もう、神の御翼の陰に身を避けるしか方法がなかった。そして、すべてを成し遂げて下さる神を信頼するしかなかった。
 人の想定外は神の想定内。ダビデは、大波に翻弄されながら、やがて波を捉え、波を乗り越え、波を味方にする人になっていく。


 →あなたの番です 
      □私は正直だろうか、それとも、独裁者だろうか?
  □私は、誰を守ろうとしているのか
  □すべてを成し遂げて下さる神を信頼しよう