ヨシュア記7:1~26 アコルの谷


 ヨシュア記7章を読むと、大阪弁で言いたたくなります。「アカン!」 

1、聖絶とは何か。

「聖絶のもののことで罪を犯し」(1節)と書かれてありました。

聖絶とは、何でしょう。その地に住む人々を殺害し、持ち物や家畜、偶像とその神殿、町を焼き払うことを意味します。旧約聖書のある時期にだけ、神がイスラエルの人々に命じた命令です。
申命記7:1~6によると、聖絶して、約束の地に住む住民を殺し、異教の神殿を破壊し、カナン人と婚姻関係を結ぶなと命じています。申命記20:16~18によると、聖絶の目的が、偶像の神をイスラエルに持ち込むことを防止する措置だと納得できます。レビ27:28によれば、聖絶されるべきものは神にささげられたもので、それを自分が奪い隠すことが罪であることが分かります。

聖絶とは、恐ろしい伝染病を水際で防ぐ方法に似ています。鳥インフルエンザに汚染された鳥が見つかると、その農家の健康に見える鳥も全部処分されます。
申命記12:31「自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである」とあるように、当時のカナンの宗教は子供を犠牲にする残酷な宗教であり、神はその影響を取り去ろうとされたのです。

神は、今もあなたの心が天然痘やペストにならないよう、必死になって守っておられます。大声で警告してくださっているのです。麻薬、ドラッグには絶対手を出すな。魔術やあやしいスピリチュアリティーに関わるな。ギャンブルするな。姦淫するな。
神は何を止めようとしていますか。あなたは、何を神から警告されていますか。



2、本当の敗北理由

 ヨシュアたちはエリコで勝利し、アイという小さな町に向かいました。偵察隊は、3千人出せば勝てると報告しました。(2~3節)いざ戦ってみると、完全な敗北で、死者を出し、坂道を逃げ帰って来ました。(4~5節)ヨシュアは落胆して、泣き言のような祈りをしました。(7節)

なぜヨシュアたちは負けたのでしょう。心のゆるみですか。戦術の不備ですか。いいえ、もっと本質的な問題的があったのです。

しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。(ヨシュア記7:1)

 1節が鍵です。歴史が語られる前に、問題点がすでに指摘されています。大勝利の陰に、次の敗北の芽が生えていたのです。

イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。(11~12節)

聖絶すべきものをアカンが隠し持ったので、イスラエル全体が聖絶の危険に陥ったのです。伝染病を囲い込んだのと同じなのです。神は、聖絶のものを隠し持つ者を見つけ出し、処罰することが解決方法だといわれました。

立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。『イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。(13節)

敗北したことが目に見える問題でしたが、本当の問題は、聖絶のものを隠しておいた事にありました。
もしかしたら。今あなたに起きている問題の原因はどこか別にあるのかもしれません。失敗のきっかけになった「あの人」「あの事」にばかり目を奪われず、もう少し深くを見つめましょう。神から分析する智恵をもらいましょう。きよめが必要な分野があるかもしれません。きよさを求めましょう。

神は、「立て。民をきよめよ。」(13節)と言われました。立ち上がりましょう。きよさを求めましょう。


3、失って得るもの

こうして彼らは、アカンの上に、大きな、石くれの山を積み上げた。今日もそのままである。そこで、主は燃える怒りをやめられた。そういうわけで、その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。(26節)

わざわいをもたらすというヘブル語「アカル」を語源にして、その地はアコルの谷と呼ばれイスラエルの人々の記憶に残るようになりました。イスラエルの人々は、アカンのような事はすまいと心に誓ったはずです。

根本的な問題解決をしようとすると、かなりのダメージを受けます。でも、悪いことばかりではありません。初期の癌なら手術して摘出すれば健康にすごせる場合も多くあります。隠していた罪をはっきり告白し、処罰や社会的制裁を受けることで再出発できた人もいます。
失って得るものもあるのです。

べサニー・ハミルトンは小さい頃から優れたサーファーとして広く知られたハワイの女の子でした。2003年、13歳の時、ハワイのマウイ島でサメに襲われ左腕を失いました。
神がいるなら、なんでこんなひどい事がおきるんだと考える人がたくさんいますが、べサニーは違います。事故以来、左肩を見せながら、神は真実な方だとあかししています。
彼女は今22歳、最近、被災地を訪れて、サメに噛まれた後にイエスさまがどんなふうに力づけてくれたかを明るく積極的に語りました。話の後の質疑応答のとき、被災地の日本人が質問しました。もし神が一つ願いをかなえてくれるとしたら腕を戻してほしいと願いますか。べサニーは答えました。今まで腕を戻してほしいと祈ったことはありません。腕を失ったことによって、世界のあちこちに行き、イエスさまのことをあかしできるようになったのでむしろ感謝していますと語りました。

 きちんと対処するなら、失ったものはもっともっと豊かなものに代わって戻ってきます。

 「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第1ヨハネ5:5)

 あなたの番です
 □神はあなたを悪から必死に守ろうとしています
 □本当の原因を見極める洞察力を主に求めましょう
 □失って得るものがあります


ヨシュア6:1~27 エリコの城壁



 エリコの城壁がどのようにして崩れたか。それがヨシュア記6章の記述です。
この内容は幼稚園の子供たちも分かるほど単純です。エリコの周囲をイスラエルの兵士たちが1日に1度、7日目には7周歩いて回り、角笛の合図で叫ぶと城壁が崩れたのです。
(とはいえ、聖絶の概念は難しいです。7日目が安息日であり、礼拝行為として戦いが行なわれたと指摘する神学者がいて、とても興味深い視点だと思います。)

さて、エリコの周囲を回ることにどんな意味があるのでしょう。私たちの日常生活に生かすにはどうしたら良いのでしょうか。それを、まず、あなた自身が考えて下さい。

礼拝でみなさんに同じ質問をすると、色々な答えが返ってきました。
  ・この戦いは神の戦いだ
   ・自分の力を過信しない
   ・黙る必要がある
   ・毎日祈る
 あなたの答えは何ですか。


1、あなたの手に渡した

 「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。」(ヨシュア記6:1)

 難攻不落。エリコの城壁の前では、誰もが戦意喪失しました。でも、主は、ヨシュアにこう言われました。

 「あなたの手に渡した。」(2節)

 まず、この言葉を神からの約束として受け取める必要があるでしょう。

 あなたの前に立ちはだかる城壁とは何ですか。たとえそれが困難な問題でも、神は、あなたの手に渡したと言っておられる。これが、あなたが受け止めるべき最初のメッセージです。



2、沈黙する兵士たち

 神がヨシュアに命じた攻撃方法は一風変わっていました。エリコの周囲をだまって歩くことです。

あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」(ヨシュア記6:3~5)

 毎朝、イスラエルの戦士は戦闘態勢を整えますが、何もせずにエリコの周囲を1周歩きます。神の箱を祭司がかつぎ、イスラエルの民がその前後を歩くのです。

ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」(10節)

この時、どんな音がしただろう。角笛の音と、兵士らの足音、時たま聞こえる鳥の声ぐらいでしょう。角笛は7人の祭司が吹きました。(8節)兵士は声を出してはいけないのです。(10節)イスラエルの民は、暴徒の集まりではなく、統制されていました。

角笛は、モーセがシナイ山に登った時に聞こえた角笛を思い出させます。シナイ山での角笛は、神がおられることを教え、人々に畏敬の念を与えました。(出エジ19:16)

戦士たちは何を考えて歩いたのだろう。目は下を向いたのか、上を見たのか、それとも、エリコの城壁に向いていただろか。黙るとき、人は、何をするだろう。色々な考えが頭をよぎっただろう。
こんな事をいつまでやらせるのだ。早く戦おう。十分準備はできている。そう考えても無理はありません。納得できなくても、神が言われた方法に従う。これは、人間にとって大事な生き方です。

「あながたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」(10節)

角笛の音が聞こえる中、人々の心は最終的には祈りになったと私には思えます。6日間、屈強な戦士たちが沈黙の中で祈っていたのでしょう。神の箱がそこにあって、一緒に移動したいるのですから、神の臨在を深く感じていたでしょう。


 イスラエルの戦い方を私達の生活に生かしてみよう。問題の周囲を回り、祈ってみよう。誰かと一緒に問題の周りをまわり、一緒に祈ろう。神がおられることに意識を集中しよう。問題から距離を置いて、祈ってみよう。6日間祈り続けると何かが変わります。自分の態度が変わるし、神のみこころが見えてきます。平安が与えられます。

納得できなくても、神の言われることに従うことが大事です。あなたも6日間、問題の周囲をまわりながら祈りましょう。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。(詩篇62:1)



3、7日目に叫ぶ

七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。(15~16節)

7日目に、イスラエルの勇士は7回もエリコの周囲をまわった。エリコの人々は、沈黙を続けながら周囲を歩く人々を見て、ぞったしたはずです。

そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。(20節)

 叫ぶだけで城壁が崩れた。これが神のなさることです。

 イギリスのブリストルで孤児院を始めたジョージ・ミューラー(1805-1898)は祈りの人として知られます。ある日、朝食がないまま、ミューラーは400人の子供たちと共に食前の祈りをしました。するとドアをノックする音が聞こえ、焼きたてのパンとミルクが届きました。イベントがキャンセルになったというのです。65年間、こんなふうにして孤児院の働きを続けることができました。祈りは5万回かなえられたといいます。当時のイギリスは化学万能意識が社会を支配していましたが、ミューラーは神は生きておられると信じ、実際的な問題の解決を神に願い求め、応えられました。

 神のなさることは、人の想像を超えています。(第1コリント2:9)
 
→さあ、あなたの番です。
 □神がエリコの城壁を私の手に渡しておられると信じる
□問題のまわりで6日間祈る
 □納得できなくても、神の方法で戦おう


ヨシュア5:1~15 主の軍の将

   ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は記念碑を作り主をあがめたが、いまだに戦闘態勢に入らない。今日の箇所では、敵に襲われたらひとたまりもないような危険な行動をする。
 なぜ、そうするのか。また、なぞの人物が現れるがそれは誰なのか。

1、敵は途方にくれていた

イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。(1節)

 イスラエルの敵である、エモリ人やカナン人は、心配で押しつぶされていた。神の力により、イスラエルの民がカラカラに干上がったヨルダン川を渡った話を聞き、戦意喪失していた。

 今日、あなたに知ってほしいことがあります。あなたは、今、心配でつぶされそうかもしれません。未来が見えずに恐れているかもしれません。でも、あなたの敵は、あなた以上に心配して、みじめなほどにブルブルと震えているのです。
 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

 神は、あなたの敵に、大きな恐れを注入してくれる方です。


2、心を決める

 イスラエルの男性全員が、神の命令により、割礼を体に刻む処置をした。(2~9節)

 割礼は、男性の性器を被う皮の一部を切り取る外科手術で、アブラハムが神と契約を結んだ時に神に命じられた契約の印だった。イスラエルの人々は、男子が生まれると8日目に割礼を施すことになっていた。(創世記17:1~12)
アメリカで男の子が生まれると、宗教上の問題は別にして、医学的観点から割礼の処置を行っている。
 出エジプトを経験した成人男子がすべて荒野で死んだ後(6節)、生まれてきた男子への割礼は一切行なわれていなかった。神に逆らった世代が神への反逆の意味でしなかったのか、それとも、神の民の印にふさわしくなかったからか、理由は分からない。

 現代の手術用のメスではなく、火打石を削って作ったナイフでは、処置は痛かったはずだ。創世記34:24~25によると、割礼後3日目が一番傷が痛むという。戦うことは不可能だ。それでも、割礼をした。敵が襲ってきたら、全滅の危機だったが、神に従った。生きることも死ぬことも神に完全にゆだねた。

主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。(7~8節)

傷は痛んだが、神の民の自覚は逆に鮮やかになった。私たちは、神の民。私たちは、神に従う。神のために戦う。そういう気概が起きたはずだ。

 試練や問題に立ち向かう時、私が誰なのかを確認することは大切だ。私は神に造られた者で、ずっと神に愛されてきた。イエスさまが私の罪のために十字架で死んでくださり、私はイエスさまを救い主として信じた。だから、生きることも、死ぬことも、主の御手の中にある。そう心から言えたら、私たちはとても強くなる。
 「私にとって、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)

 あなたも心を決めましょう。敵や問題に翻弄される前に、自分が誰なのかを旗印を鮮明にしましょう。主イエスを信じていないなら、今日、信じますと神に言いましょう。神をすでに信じた人は、信じたあかしとして、洗礼を受けましょう。

 どんな事が起きても、何が横たわっていても、神を信じる者として前に進みましょう。


3、主の軍の将

 リーダーにはリーダーだけの不安がある。大統領選挙候補者は、人前では元気で覇気があっても、一人になると、投票予測データが出るたびに、落ち込んでいるかもしれない。
イスラエルの司令官のヨシュアは、難攻不落の城壁の町エリコを遠くからながめ、一人たそがれていた。

さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」(13節)

 気がつくと前方に将軍のような軍装をした男が立っていた。それも、鞘からぬいた両刃の剣を手に握っていた。

 この見知らぬ人物が、殺気をみなぎらせ、剣を振り上げてヨシュアに迫って来たなら、ヨシュアは話しかける間もなく剣を抜いて応戦しただろう。ヨシュアが歩み寄ったという記述を見ると、見知らぬ戦士がエリコの方角を見て立っていたと考えるのは論理的だろう。

すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(14~15節)

 その戦士は、敵とも言わず、見方とも言わない。最初に、「いや」と言っている。主の軍の将だと言った。まるで、ヨシュアの質問が的外れだと指摘しているようだ。敵か味方は重要ではない。ヨシュアが、神の側にいるかどうかが肝心だと言っているように見える。

 ヨシュアは、その謎の人物を礼拝した。黙示録22:9を見ると、天使は人間による礼拝を拒絶するものだと分かる。とすると、この人物は天使ではないと分かる。その人物は、ヨシュアにはきものを脱ぐように命じた。
 モーセが燃える柴を目撃し、靴を脱いで主を礼拝した場面を思い起こす。多くの聖書学者は、主の軍の将が生まれる前の主イエスだと説明している。

 「この戦いは主の戦いだ」と言った人物がいる。信じられないほど大柄な敵の前に立ち、鎧も身に付けず剣も持たずに立ち向かった。その名は、ダビデ。第1サムエル17:47に書かれてある。
 私たちが直面している戦いや試練も、主の戦いなのです。

 怖くなるのは、自分で戦おうとするからだ。戦いの先頭に立つのはあなたではない、主イエスだ。主イエスは、すでに臨戦態勢にある。あなたが将軍ではない、主イエスが主の軍の司令官だ。主イエスは、何千、何万という戦士を引き連れて、戦ってくださる。

この箇所から何を学べばよいのだろう。
何か大きなことに取り組む前に、敵や試練に立ち向かう前に、主を礼拝しよう。それが、最も正しい戦い方だ。靴を脱ぎ、神の前に謙虚になろう。神が生きておられることを信じよう。神をたたえ、礼拝しよう。問題や悩みを主の御手にお任せしよう。神が戦ってくださると信じよう。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

私は25歳で副牧師になり、28歳で別の主任教会に導かれました。やがて教会に来る人が増えて会堂建設の必要に迫られました。総工費はかなりの額になりました。私には城壁のようにそそり立つ問題に見えました。
50歳代の男性役員たちと共に銀行に出かけ、融資の依頼をしました。責任者の私は30歳代前半の若造でした。役員たちは、連帯責任者となり契約書に実印を押しました。彼らの信仰は見事です。銀行の担当者は、私たちの計画を受け入れ、融資を許可しました。(今考えると、役員達の社会的信用の高さ、教会の会計報告の堅実さ、当時の社会の経済状況などがプラスに働いたと思えます)最終的には3階建ての教会堂が建ちました。
主が前に進んでくださったから、としか私には思えません。

 →あなたの番です
 □あなたの敵が震えていることに気づこう。
 □主イエスについて行くと心に決める。
 □主の前で靴を脱ぎ、主を礼拝しよう。


「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」(14節)


ヨシュア記4:1~24 記念の石

イスラエルの民はついにヨルダン川を越えて、約束の地に入りました。約束の地とは、イスラエルの民がリラックスできる楽園ですか。いいえ、この時点では、約束の地とは戦場を意味します。ヨルダン川を渡ってすぐの場所がギルガルですが、そこにヨシュアは記念碑を建設しました。戦闘集団が戦地に入って最初にする行動としては、とても奇異な動きです。記念碑にどんな意味があるのでしょうか。

1、忘れないため

イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げたとおり、イスラエルの子らの部族の数に合うように、ヨルダン川の真中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。――ヨシュアはヨルダン川の真中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの足の立っていた場所の下にあった十二の石を、立てたのである。それが今日までそこにある。――(ヨシュア4:8~9)

 ヨシュアは12部族の代表者に、ヨルダン川の川底から12の石をかついて来て記念碑を作るようにと命じました。(5節)それは、ヨシュアの思いつきではなく、神がヨシュアに命じたことでした。(2~3節)この石は、12人の信仰のあかしと言ってもよいでしょう。

 私たちは忘れやすいので、記念碑が必要なのです。体が震えるほどの奇跡を経験しても、やがて感動は色あせます。目先の忙しさに追われ、辛い試練が来ると、そんな奇跡があったことすら忘れてしまいます。

 この記念碑は、神が生きておられること、神が愛して下さったこと、神が偉大な奇跡をなさったことの「しるし」(6節)であり、「永久の記念」(7節)でした。

 あなたの信仰の記念碑とは何でしょう。洗礼証明書ですか。海でバプテスマをした人は、高校野球のように海の砂を記念にボトルに入れますか。
あなたの信仰に意味のある写真や物を、家や職場に飾ってはどうでしょう。私のオフィスのデスク前の壁には、私の人生の危機の時に支えてくれた9組の人々の写真を飾っています。




2、子供に教えるため

後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、「これらの石はどういうものなのですか。」と聞いたなら、あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。「イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。」(ヨシュア4:21~22)

 記念碑は、記念碑自身が語りだすという特長を持っています。
これは何、と子供たちは記念碑を見て素朴に質問するでしょう。大人たちは、これは、神がヨルダン川を渡らせてくれた記念碑で、この石は全部ヨルダン川の川底から持ってきたものだと説明できます。

 注意して下さい。信仰を子供に説明するのは母親ですか。いいえ、父親です。子供に信仰を教える責任は父親にあります。
子供は、父親から信仰の話を聞くのが好きです。たどたどしい言葉であっても、父親が神を信じている姿を子供に見せてください。子供は、だませません。単なる知識の受け売りでは、信仰は伝わりません。父親の信仰のあかしは、子供に伝わります。

もう一度言います。記念碑は、そこにあるだけで、あなたの信仰をあかしするチャンスを生み出します。勇気を持って、あなたの身近に置いてみましょう。

「これらの石はどういうものなのですか。」(21節)と聞かれる日を楽しみに待っていましょう。




3、未来を変えるため

あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」(ヨシュア4:23~24)

記念碑は、過去を懐かしがるという懐古趣味ではなく、実は、未来志向なのです。記念碑は、未来への勇気を与えてくれます。記念碑は、未来を変える力になります。これから、ずっと主を恐れ、神についていく励みとなります。

こんなにも神に助けてもらったのだから、これからは誰かを助けよう、という意思を与えてくれます。神からたくさんのものをいただいたから、神にたくさんのものをお返ししようと考えるのです。その思いこそがあなたの未来を変えます。

「あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」(24節)

37歳でアメリカに派遣され、シリコンバレーで工場建設に携わった男性がいました。激務が連日のように続き帰宅が遅くなり、夫婦仲が悪くなってしまいました。数年後、奥さんが教会に通いだし、主イエスを信じ、家での姿が見違えるように変わりました。教会へは運転手として妻や子供たちを送っていたお父さん自身も、自分も主イエスをはっきりと信じるようになりました。
それから7年、牧師に召されたことを知り、やがて会社を早期退職、神学校に行き、牧師になり、癌のため働き半ばで神のもとに召されました。告別式で、息子さんがお父さんの変化について証しをされました。お父さんはクリスチャンになり、牧師になり、以前にはなかった笑顔が印象的だと語りました。招天式のプログラムには、お父さんの笑顔が大きくカラーで印刷されていました。これは、「記念碑」の一つといって良いでしょう。
残された奥さんは、夫が語り続けた主の福音メッセージを広く知らせるためにウェブサイトを開設されました。これもまた、記念碑です。



→あなたの番です
□写真でも、置物でも、あなたの信仰を記念する「記念碑」を飾りましょう
□お父さん、あなたの信仰のあかしを子供に話しましょう
□受けた恩を、神と人に返しましょう

ヨシュア記3:1~17 ヨルダン川を渡る

イスラエルの民は、シティムからヨルダン川の川岸まで来ていた。

もう少し南に下ると広大な死海が横たわり、向こう岸に渡るのを阻んでいた。北に行くなら、「見よ。獅子がヨルダンの密林から…上って来るように」(エレミヤ49:19)とあるように、蛇行する川に沿ってジャングルが広がっていた。
ヨシュアたちのいた場所が川を渡るには最適だった。だが、15節から分かるようにヘルモン山の雪解け水と冬季の雨のせいで、ヨルダン川の水量が最も多い季節だった。大勢のイスラエル人が小さな渡し舟で何往復もしていたら、敵から致命的なダメージを受けたことだろう。さあ、どうしたらいいのか。
 あなたの前にも、水かさが増し濁流となったヨルダン川が横たわっているかもしれない。

1、通ったことのない道

あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。(ヨシュア3:4)

私たちの人生も、実は、「今までこの道を通ったことがない」という道なのです。人生は繰り返しに見えて、一度として同じ道はありません。初めて通る道なのです。ですから、熟練した道先案内人が必要なのです。

 祭司がかつぐ神の箱の後に続いて歩く。それが、「行くべき道を知る」ための鍵でした。通常の旅では、神の箱はイスラエルの民の真ん中に位置して(民数記2:17)民は移動しました。神が道を示す必要があるとき、先頭を進みました。(民数10:33)
今、祭司たちから、約800m離れて歩かなければならないのは、神の箱がどこを通るのかを知るためであり、神が何をされるのかをはっきりと見るためでした。

あなたの番です。
あなたの前を進む神の箱は、どこにありますか。どこを指差していますか。



2、身をきよめる

ヨシュアは、3日間かけて戦いの準備をするように命じていた。1章11節では食料の準備を命じ、2章では偵察を送って敵地を偵察し、3章では、さらにこう命じました。

ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」(ヨシュア3:5)

私達の人生の戦いでは、「身をきよめる」ということはとても大切な要素です。なぜなら、力の強さだけで勝利するなら必ず傲慢になるからです。それでは、勝利がかえってあだとなります。
身をきよめるとは、祭司のふりかけるきよめの水を受けるとか、きものを洗うなどの実際の行為を意味しますが、内面的に言えば自分の心を見つめ、自分中に罪がないか、悪い動機がないか、謙虚な心があるかを調べることです。

これは、心の定期健康診断です。
今、私たちにも、身をきよめましょう。「ごめんね」と言えてますか。穏やかですか。ゆとりがありますか。人を思いやることができますか。前向きですか。
自分の問題的が見えますか。自分が最も力を入れる分野が分かっていますか。神さまから心が離れていませんか。変えたいと思っている事がありますか。本当に祈るべきことを祈れていますか。あなたは温かい雰囲気を発生している人ですか。

ヨシュアが命じたように、「あなたがたの身をきよめなさい」という言葉は、私にも、あなたにも語られています。

身をきよめ、備えができたとき、神は不思議を行われます。



3、ヨルダン川を渡る

民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。(ヨシュア記3:14~17)

 いつ、ヨルダン川に変化が見られましたか。
 川に近づいた時ですか。いいえ、祭司たちが足を水に入れた時です。

ヨルダン川に近づいただけでは何も起こりません。実際に足を水に入れた時に、奇跡が起こりました。祭司たちのいた場所から上流20キロも離れたアダムという町の付近で水は止まったのです。やがて水は乾き、祭司たちはイスラエルの人々が渡り切るまで、川の真ん中で立ち続けました。

あなたにとって、ヨルダン川とは何ですか。今週は、神を信じて、水に足をつける時です。

私が大学生の頃、所属していた教会の出席者が増え、二階増築が話し合われました。でも、東電の高圧電線が教会の空き地上空を通っていて建築許可は下りない場所でした。牧師先生は、祈って、祈って、思い切って東電の事務所に出かけ、その旨を伝えました。すると、「わかりました。実は、高圧電線の位置を高くする工事の計画がありました。工事終了次第、建築をしてもらっても構いません。それから、保証費として100万円を差し上げます。」今から30年以上も前の100万円は価値がありました。足を水につけたら、素晴らしいことが起きました。


あなたが水際に足を踏み出すとき、神が動かれる。
「箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき」(15節)

→あなたの番です。
□あなたの前を進む神の箱は、どこに向かっていますか
□心の定期健診をしましょう
□水際に足を踏み出しましょう

 

ヨシュア記2:1~24 赤い目印

人生は戦いだ。生きていれば、戦いの場に引きずり込まれることが時にある。ヨシュアの戦い方から今日も学んでいきたい。キーワードは、斥候、行動、赤いひもの3つだ。


1、二人の斥候(1~7節)

ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家にはいり、そこに泊まった。(ヨシュア2:1)

ヨシュアとイスラエルの民は、ヨルダン川を挟んでエリコの対岸に当たるシティムにおり、戦闘の準備に取り掛かっていた。エリコはパレスチナ最古の町で、紀元前7~8千年頃から存在するオアシスの町。ヨルダン川から見ると、山を上る中腹に位置した城壁に囲まれた町で、約束の地を占領するための最大の難関とみなされていた。

ヨシュアは二人の斥候をひそかに派遣した。敵地を知らずに戦うことは、勇気ではなく無謀な自殺行為だ。斥候たちは、エリコの人々に気づかれないように、遊女の家に入り込んだ。
だが、エリコの人々はイスラエルの動向に目を光らせており、怪しい人物が町に入ったことを察知した。(2~3節)
遊女ラハブは、調べに来た人物に、二人が来たことを認めたが、帰って行ったと伝えた。(4~5節)事実はそれに反して、「彼女はふたりを屋上に連れて行き、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に隠していたのである。」(6節)

 「行って、あの地を偵察しなさい」と神はあなたに言われています。
あなたの人生でも、斥候を送り出す必要がありませんか。目の前に立ちはだかる問題が大きすぎて、正面から向かって行けないときがあります。まず、斥候を送りましょう。入念に調べたほうが良いことがあるはずです。それは、本当に必要ですか。あなたのしようとすることは、いくらかかりますか。それは、神が喜んでくださることですか。

2、ラハブの信仰

 ヘブル人への手紙は、遊女ラハブを信仰の偉人のリストに加え、称賛している。ラハブが斥候の二人をかくまい逃がしたことがラハブの信仰の行いだと理解している。

信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。(ヘブル11:31)

どこにラハブの信仰があるのでしょう。それは、第一に、ラハブがカナン人の偶像を神と呼ばず、イスラエルの神をヤハウェを呼んでいることから彼女の信仰姿勢が分かります。

主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。(9節)

私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。(11節)

新改訳聖書で「主」が太字になる場合は、原文ではヤハウェ指します。ラハブは、ヤハウェが神だと告白しました。神が全世界の究極的な支配者であるので、パレスチナの土地がイスラエルに与えていることを認めました。

ラハブが、まことの神、主を信じるようになった詳しいいきさつは分かりませんが、危険を冒してまで斥候をかくまい、自分の信仰を行動で表しました。
後にラハブは救出され(6:25)、イスラエルの仲間と認められ、主イエスの系図にも名を記されました。「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ」(マタイ1:5)

聖書知識を持っていることだけでは、あなたの人生は変わりません。信仰に裏付けられた行動があなたを変えます。「その人に行いがないなら、何の役にたちましょう」(ヤコブ2:14)
さて、あなたは、今週、どんな行動を取り、あなたの信仰を表しますか。もしかしたら、あなたのところに逃げ込んで来る人を助けることかもしれませんね。
3、赤い目印

 ラハブは、イスラエルが攻撃するときに自分と家族を助けて欲しいと願い出ました。(12~13節)二人の斥候は、かくまってもらった恩に報いて、救出を約束します。(14節)
 ラハブは、二人を城壁づたいに逃げられるように綱を用意し、ヨルダン川に戻らず反対方向の山に隠れ、3日後に川を渡るように助言しました。二人はそれに従い、無事に陣地に戻りました。(22節)

 二人の斥候は、ラハブの家の目印として「赤いひも」を手渡しました。この目印を窓に結んでおけば、イスラエルの兵士は危害を与えないと約束しました。

私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。(18節)

救い。赤。3日。この3つの言葉で、何かを連想しませんか。主イエスは私たちの罪を赦すために十字架で死に、赤い血を流し、3日後によみがえって下さいました。不思議な一致があります。この箇所もまた、十字架の予告の一つとみることができるでしょう。

滅ぼされてしまうはずの者が、赤い目印一つで救われる。福音とは、そういうものです。あなたが、まだクリスチャンでないなら、あなたの心の窓に赤いひもを結んで、外から見えるようにして、主イエスを信じます、私を滅びから救って下さいとはっきり祈り、告白して下さい。

あなたが赤いひもをしっかり心に結ぶなら、イエスさまはかたときもあなたを離れません。あなたを救うのは、主イエスが流してくださった赤い血です。

ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。(21節)

→あなたの番です
□     あなたの人生にも偵察が必要です。よく調べ、祈りましょう。
□     知識でなく、行動が、あなたを変えます。アクションしましょう。
□     赤い目印を心に結びましょう。主イエスはあなたから離れません。

ヨシュア記1:1~9 雄々しくあれ

リーダーが交代するとき、そのグループは危機を迎えます。今度のリーダーは良い人か。きちんと役割を果たせるだろうか。人々は、不安を感じ、昔のリーダーを懐かしがります。

指導者の交代という危機を乗り越えるための秘訣が7つあります。
①新リーダーを任命、②使命を確認、③「与えようとしている」と「与えている」を理解する、④神の約束を受け入れる、⑤雄々しくあること、⑥みことばを口ずさむ、⑦フォロアーシップ


1、新リーダーを任命する

 さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。(ヨシュア記1:1)

適切な人物を新リーダーに任命する。これはとても大事です。後継者を決めずにそのまま放置することはグループの崩壊を意味します。
 今日の箇所では、神がモーセの後継者としてヨシュアを選んだことが分かります。ヨシュアは、「モーセの従者」で長年モーセから信仰を学んできた人でした。

 リーダーの息子だからとか、長くいるから、歳が上だから、社会的に地位があるから、声が大きいからなどの理由で、リーダーを選ぶ場合が多いですが、しばしばそれは問題を招きます。
 神が選ばれたリーダー、それが、リーダーの資質で最も大事な要素でしょう。神が選んだリーダーが誰なのか、見極めるのは人間的には難しいことです。現代に適応するなら、毎週礼拝を欠かさない人が教会のリーダーになるための必要条件だといえるでしょう。礼拝を優先順位のトップに置く人は、神を愛している人、神の栄光をあらわしたい人、神から学びたい人だからです。いわば、神の「従者」としての姿勢を保っているからです。


2、使命を確認する

 わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。(2節)

新しいリーダーは、いよいよ自分の番だ、自分のカラーを出すぞ、と意気込みます。でも、聖書に描かれるリーダーは自分のやりたいことを好き勝手にやるわけではありません。神が与えて下さった使命をしっかりと受け継ぐ人が真のリーダーです。
 約束の地に入り、そこを占領すること。それが、ヨシュアに与えられた使命です。

ここで大きな質問をします。あなたにとっての約束の地とは何ですか。言い直します。あなたは、どんな使命を神から与えられていましたか。

 もう少し、このテーマを因数分解してみましょう。以下の3つの分野での使命とは何ですか。
1)家庭で、2)社会で、3)教会で。

あなたが勝ち取るべき地は、何ですか。


3、「与えようとしている」と「与えている」の違いの認識

わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。(2~3節)

 「与えようとしている」(2節)と「与えている」(3節)という二つの言葉の意味するものを、リーダーはしっかりと把握する必要があります。
神は、イスラエルの民にこの地をすでに「与えている」のです。神の側ではすでに完了しています。小包は発送されました。
 けれども、イスラエルの民は今ヨルダン川の東側におり、約束の地には入っていません。ヨシュアとイスラエルの民が実際に歩いて入り、勝ち取った土地、「足の裏で踏む所」だけが自分たちのものになります。
 
私たちの人生にも、「与えようとしている」と「与えている」があります。勝利や祝福を自分のものにするには、足で踏む必要があります。足は汚れたり、傷ついたりするでしょう。でも忘れないで下さい。すでに与えられているのです。神の側では完了しています。勝利は間違いないのです。神が約束された広大な領土(4節)は、ダビデとソロモンの時代に実現しました。


4、神の約束を受け入れる

あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(5節)

ヨシュアには、神からの約束が与えられました。「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。」
 神が共にいるという意味は、失敗や落胆がないという意味ではありません。この後の記録を見るとヨシュアは何度も失敗し、心が萎える経験をします。神が共におられたので、失敗から立ち上がり、困難を乗り越えることができたのです。

 アフリカの奥地を一人で旅することになれば心配でいっぱいになりますが、そこで30年活動してきた宣教師が一緒に行ってくれるなら安心ですね。神は、ベテランの道先案内人です。


5、雄々しくあること

強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。(ヨシュア1:5~7)

ヨシュアが臆病だったので、雄々しくあれと言われたのでしょうか。いいえ違います。イスラエルの宿敵アマレクとの戦いで先頭に立ったのは若き日のヨシュアでした。(出エジプト17:9~10)また、カナンの地を偵察に行った12人の一人で、多くの者が悲観的な事を述べて人々の士気をくじきましたが、ヨシュアはカレブと共に信仰に立って積極的な意見を述べました。(民数記14:6~9)

 ヨシュアが若かったから恐れがあったのですか。いいえ。斥候に使わされた時が20歳前後なら、40年の荒野の旅を計算すれば、経験を積んだ60歳の壮年です。

偉大な指導者の後のリーダーはプレッシャーが強いものです。イスラエルの大勢の人々の命運を自分が背負うと思えば、責任感で恐れが来ることは当たり前でしょう。
神からの助けなしには、リーダーの責任は果たせないと謙虚に思える人が神に用いられるリーダーです。神の励ましで奮い立つ人こそ、真のリーダーです。

 ヨシュアはモーセから「雄々しくあれ」と言われました。(申命記31:7~8)また、神ご自身も「雄々しくあれ」と直接ヨシュアに語られました。(申命記31:23)そして、ヨシュア記に入っても、同じ言葉で励まされました。リーダーに必要なのは、神からいただく勇気です。


6、みことば 

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。(8節)

みことばを口ずさむこと。思い巡らすこと。それが、リーダーとしての役割を果たすために不可欠な生活習慣です。
ですから、毎日聖書を読んでいる人がリーダーになっていくのは、自然な流れです。

 私は大学時代、教会の高校生会のリーダーになりました。「どうだい、先週、毎日聖書は読めたかな」と高校生に質問しながら、ディボーションができるよう指導していました。実は、そのおかげで、毎日聖書を読む習慣が身に付いたのだと思っています。40年間、毎朝聖書を読む習慣は最も価値ある生活習慣でした。


7、フォロアーシップ

 ヨルダン川東岸部、南から北に向かって、イスラエルの12部族のうち、ルベン、ガド、マナセの半部族がすでに領地を得ていました。ですが、彼ら2部族半は他の部族の先頭に立って戦いを続けると約束し、(14節)新リーダー、ヨシュアへの忠誠を新たに表明しました。

 あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。(16~17節)

何でもします。どこへでも行きます。なんとすがすがしい言葉でしょうか。

 指導者交代の際に、新しいリーダーに不安を感じ、昔のリーダーを懐かしがり、場合によっては反抗することがしばしばあります。ルベン、ガド、マナセの半部族は、神が立てたリーダーであることを根拠に、文句なしに従うという忠誠心を示しました。リーダーシップは、フォロアーシップがあって初めて機能します。新リーダーを生かすも殺すも従う人々の態度次第です。
私は25歳で副牧師になりました。40代、50代、60歳代の先輩たちが、若造のメッセージを熱心に聞き、私の未熟なリーダーシップに従ってくれました。

あなたは誰に対してフォロアーシップを示しますか。美しいフォロアーシップを示してください。


→あなたの番です。
□     あなたにとって、約束の地とは何ですか。
□     リーダーとして立つために、あなたは何が必要ですか。
□     合言葉は、「雄々しくあれ」。神はあなたと共にいます。
□     何をすることが、あなたのフォロアーシップですか。