マタイ11:1~6 ぐらつくヨハネ

 今回は、バプテスマのヨハネの心の葛藤を取り上げます。

1、疑うヨハネ

イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:1~3)

バプテスマのヨハネは炎の預言者でした。らくだの毛皮を着ていなごと野密を食べて荒野でストイックな生活をしながら、罪を悔い改めよと人々に叫び、救い主のために道を備える働きをしました。(マタイ3:1~6)
庶民でも権力者でも分け隔てなくはっきりと罪を指摘し、悔い改めのバプテスマをヨルダン川で授けました。国主ヘロデの結婚が不法だと糾弾したため、捕らえられ、今は牢獄に閉じ込めたれていました。(マタイ14:3~4)

本来のヨハネなら、主イエスの数々の奇跡を聞いて、「ハレルヤ!あなたの奇跡のみわざを聞いて心からあがめます。あなたこそ私が道を備えた救い主です」と主イエスに言葉を伝えていたはずです。

ところが、ヨハネは信仰がぐらついていました。主イエスの奇跡の話を聞いても「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と弟子を通じて主イエスに尋ねました。

隔離され、孤独になり、劣悪な環境と最低の食事のために体も心も衰弱し、死刑の恐怖が信仰を不安定にさせたのかもしれません。救い主であるはずの主イエスが、私を牢獄から救い出してくれない。今までの労苦は報いられるのだろうか。自分が信じて来た救い主は、本当にイエスだったのだろうか。

 あなたも信仰がゆらぐときがありますか。



2、事実に目を向けよ

イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:4~6)

主イエスは、ヨハネを叱責しません。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」というヨハネの質問に対する主イエスの答えはシンプルでした。わたしが救い主だと言う代わりに、聞いたり見たりしていることをヨハネに伝えなさい、とヨハネの弟子たたちに命じました。

信仰がぐらついた時は、第一に、事実に目を留めることが必要です。主イエスが何をなさったか、何が起きたのかを心に留めましょう。信仰の土台は事実です。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。(マタイ11:5)

イエスの奇跡は、誰もできないし、誰も見たことのないものでした。イエスの敵対者の祭司や律法学者すら奇跡を否定できなかったことを思い起こして下さい。「この人は、悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」(マタイ12:24)「彼は他人を救ったが、自分は救えない。」(マタイ27:42)

主イエスは、実際に起きた奇跡によって、ご自分が神であり救い主であることを示されました。



3、みことばに目を留めよ

信仰がぐらついたときに、第二に大事なことは、神のことばです。

主イエスは、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と言われました。

主イエスの発言を聞いて、ヨハネはイザヤ書35章を思い出し、ドキッとしたはずです。主イエスが言われたことは、イザヤ書35章の預言の成就だったからです。
「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない舌は喜び歌う。」(イザヤ35:5~6)

 そもそも、ヨハネは祭司の息子であり、聖書に通じていた人でした。イザヤ書の言葉から自分の使命を理解して「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)という自己認識をしていました。
 主イエスの言葉の引用元であるイザヤ書35章の最初の部分も同時に思い起こしたはずです。

 「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
  心騒ぐ者たちに言え。
  『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。』」(イザヤ35:3~4)

 信仰が揺れ動くことは人生に何度かあります。そんな時、「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と言って私たちを励まして下さいます。

 ヨハネの立場で主イエスの言われた内容を聞き直すと、主イエスの言葉に励ましのヒントが隠されていた事が分かります。
 バプテスマのヨハネは、牢獄から出られず世の中の事は見えない盲人の状態にいました。牢屋の外に出られず、足が不自由で歩けない人のようでした。ツァラトに冒された者のように隔離され孤独でした、耳が聞こえない人のように情報が限定されました。死刑を待つ身のヨハネは、生きていても死人でした。そして、最も貧しい人のような最下層で失望した人のように暮らしていました。主イエスは、これら6つの事柄に勝利する奇跡をなさったお方です。ヨハネにとって何と大きな励ましになったことでしょう。

 信仰が揺らいだ時は、第一に事実に目を向け、第二に神の言葉に留まり、第三に主イエスの励ましに耳を傾けましょう。

「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。」


 →あなたの番です
   □心がゆらぐときもある
   □事実と神の言葉に土台を置く
 □主イエスの励ましを受け止めよう

マタイ10:34~42 十字架を負って

 十二弟子は二人一組で伝道旅行に派遣されました。それに先立って、主イエスが注意事項を弟子たちに語られた内容が10章です。最初は具体的なアドバイスで、病人をいやしなさいとか、財布は持つなという指示でした。内容は次第に弟子の内面に関するものとなり、今日の箇所はキリストの弟子として最も大切な心構えが語られています。


1、父母よりも

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:34~37)

 旅客機のパイロットはシュミレーターで訓練を受け、突然エンジンが止まるなど過激なトラブルの対処を学びます。
主イエスは、いわば信仰シュミレーターを用いて弟子たちを訓練されました。家族との対立という最も過酷なトラブルを想定させました。良く考えさせ、それでも主イエスに従う事が弟子の道だと教えました。
実際のところ、両親から信仰を反対されるクリスチャンがいます。尊敬し、愛する父母とぶつかるのは精神的にきついです。でも妥協はいけません。主イエスは剣をもたらす方です。

 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」

 誰よりも主イエスを愛します。私を愛し、私のために命をお捨てになった主イエスを誰よりも愛しますと心に刻んでおきましょう。それが弟子の心です。

 

2、いのちを失う覚悟

 今日の中心聖句は38節と39節です。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:38~39)

 1909年2月28日午後8時過ぎ、北海道の塩狩峠で、列車の最後尾の客車が外れて峠を下り始めました。乗り合わせた鉄道の職員職員、長野政雄さんは自らの体を車両の下敷きにして乗客を救いました。長野さんは熱心なクリスチャンで29歳、その時携帯していた小型聖書の表紙は赤く染まりました。

 1954年9月26日、アメリカ人宣教師ディーン・リーパーとカナダ人でメソジスト派の宣教師アルフレッド・ストーンは、青函連絡船「洞爺丸」に函館から乗り込みました。台風の直撃を受け船は沈没、その際、自分の持っていた救命胴衣を日本人に与えて命を救い、自分たちは犠牲になりました。

 この人たちは、なぜ、自分の命を捨てて他の人を助けることができたのでしょうか。それは、主イエスの弟子として死ぬ覚悟があったからです。

自分の十字架を負ってついて来なさいと主イエスは言われます。十字架を負うとは、自分のハンディとか運命とか苦悩を背負うという意味ではなく、死ぬ覚悟を意味しています。十字架刑の場合、死刑囚は自分がかかる十字架をかついで刑場に行きました。キリストのために命さえ惜しまない。それがキリストの弟子の心構えです。

この心構えさえできていれば、身近な人を愛すとか、奉仕のために自分を捧げるとか、誰かのために時間を使うとか、大切なものを捨てることができるのです。

キリストの弟子になりたいですか。それなら、キリストのために死ぬ覚悟をしましょう。大切なものをいつでも捨てるつもりで生きてみましょう。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:38~39)



3、私がキリスト?

あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:40~42)

キリストの弟子を受け入れることは、キリストを受け入れることになる。また、それは、父なる神を受け入れることになる。キリストの弟子に水を飲ませる行為は、キリストに水を差し上げることになる。
ここで、キリストの弟子とキリストが同一視されています。キリストの弟子としては光栄なことです。

「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」あなたの存在は、まるでこの地上にキリストが生きておられるのと同じことだと主イエスがみなして下さるのです。あなたや私がキリストの弟子としての心構えを持って生きるなら、地上にたくさんのキリストが生きていることになるのです。


「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」

キリストの弟子になりたいですか。生涯、キリストのあとについて行きたいですか。

→あなたの番です
 □家族より、誰よりも、主イエスを愛します
 □主イエスのために命を惜しみません

マタイ10:24~33 一羽の雀さえ

 マタイ10章は弟子の心得を教えた章で、今日のテーマは恐れです。
 恐れは、主イエスの弟子とした歩むことをじゃまします。
 弟子よ、恐れるな、と主イエスは3回も言っておられます。


1、弟子よ、恐れるな

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
(マタイ10:24~27)

 私たちは悪口に弱いです。元気な人も、一言で萎えてしまうことがあります。

 「だから、恐れるな」と主イエスは言われました。だからとは、恐れる必要がないという理由説明です。
 悪口を言われても、馬鹿にされても、恐れるな。先生である主イエスが、ひどいことを言われ続けているのだから、弟子であるあなたたちが罵倒されるのは当然だというのです。

 イエスは、悪霊の親分=ベルゼブルだと言われていました。悪霊のかしらだから、悪霊を追い出せるのだと律法学者たちは悪口を言い続けました。
 
 隠してはいけない。食卓で主イエスから聞いた話でも、語りなさい。暗闇で聞いたことも明るみで語りなさい。屋上で、街中で語りなさい。
 悪口や陰口を恐れず、律法学者の悪口に気力を削がれず、主イエスから聞いた福音を人々に語り続けなさい。



2、雀よ、恐れるな

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:28~31)

 主イエスの弟子として真剣に歩むなら、必ず、暴力、迫害を受け、時には命の危険にさらされます。そんな時は、良い意味で居直り、死を恐れないことです。

人は人間の体を滅ぼすことしかできません。敵対者は、クリスチャンを迫害し、殺すことしかできないのです。神は体も魂も両方とも滅ぼすことのできる方なので、神のみを恐れよ。人を恐れるな。

1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリーの町で、バスに乗っていた黒人女性が白人乗客に席を譲らずに座る決心をしました。静かで勇気あるこの行為が、黒人の人権運動の大きなうねりをもたらしました。その女性ローザ・パークスは、当時42歳。彼女を支えて運動の先頭に立ったのは26歳のキング牧師でした。ローザはこう言っています。「キング牧師は、真のリーダーでした。私は、彼に恐怖心があるのを感じたことがありません。」キング牧師は、自由のため、主イエスの福音を実践するために、恐れを乗り越えて活動しました。その結果、肉体の命を奪われましたが、反対者は彼の魂を滅ぼすことはできず、むしろ、敵対者たちは敗北しました。

自分がちっぽけな者に感じるとき、恐れを感じます。自分が世間に何の影響も与えないし、いてもいなくても同じような存在だと考えてしまうと、恐れが心を支配します。

当時、雀が売られていましたが、1羽では販売されず、2羽でいくらという売り方でした。日本でいえば、メザシ一匹のようなものです。
「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」そうです、そんな雀の一羽であるあなたを、神は守ってくれます。
自分は価値がないと勝ってに思い込んでも、神はあなたを大切に考えています。あなたの髪の毛一本でさえ、神に数えられています。神は、あなたの人生の細部まで知っておられ、あなたを守っておられます。

だから、周囲のすべての人間を恐れるな。神だけを恐れよ。あなたは、神のセキュリティーの中で守られている。一羽の雀よ、恐れるな。


3、人を、恐れるな

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ10:32~33)

周囲からプレッシャーをかけられ、「まさか、君、クリスチャンじゃないよな」と言われたときも、自分の信仰をきちんと告白しましょう。

主イエスの十二弟子なのに、人の目を恐れて、自分の命が惜しくなり、主イエスの弟子であることを否んだり隠したりするなら、その時は、主イエスはあなたを知らないと言われます。

恐れる理由は存在しません。キリストの弟子として胸を張って歩みましょう。

「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」


→あなたの番です
  □主イエスの弟子よ、陰口や迫害を恐れるな
 □一羽の雀よ、あなたは守られている
  □救われし者よ、主イエスを人前で認めよ

マタイ10:16~23  用心しなさい

 ヨセミテ国立公園にはハーフドームと呼ばれる山があります。お椀を逆さにして半分を切り落としたような花崗岩の塊で、渓谷の底から頂上まで1500mの高さがあります。何度もハーフドームを上った人は初心者に次のような注意をします。登り始めたら5分くらいは決して下を見ないこと。不安だったら命綱のフックを鎖につなぐこと。大の大人が泣いて降りてくるほど怖い場所だと覚悟を決めること。

 キリストの弟子として生活することは、まるでハーフドームを登ると決めることです。もし、キリストのようになりたい、福音を伝えたいと願うなら、今日の箇所のような困難があなたを待っています。嫌なら登る必要はありません。けれども、頂上にたどり着いた人だけが見える景色があります。


1、用心しなさい

 マタイ10章全体の内容は、十二弟子を二人一組で伝道に遣わすに当たって主イエスが与えた注意事項です。特に今日の箇所では、福音を伝えるなら逮捕、尋問、迫害が起こるので心の準備をしなさいという警告です。

いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。(マタイ10:16~17)

十二弟子が各地を巡るようになると、病気がいやされて喜ぶ人や、神の国の福音を歓迎して主イエスを信じる人が多数起こされます。十二弟子や主イエスを憎む者たちは、主イエスや弟子たちの人気を妬み、様々な方法で妨害します。

伝道旅行は、まるで狼の群れに羊を送り出すことです。多数の狼に囲まれて、羊が無事でいられるはずがありません。だから生き残るために、知恵や賢さが必要なのです。人々の悪巧みを見抜く洞察力が不可欠です。相手がどんなに邪悪でも、神の前の素直さは失ってはならないのです。嘘に嘘で対抗してはいけないし、暴力に暴力ではむかってはいけないのです。不必要な逮捕、裁判、暴力を上手に回避しましょう。主イエスも、祭司や律法学者に憎まれましたが、3年間逮捕されずに活動できました。あなたも、周囲の人々を無用に怒らせたり、いら立たせてはいけません。人にはくれぐれも用心して、さとく、素直に生きましょう。



2、心配いらない

また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。(マタイ10:18~20)

 逮捕されたり、訴えられれば、裁判の席で弁明することになります。総督や王たち、また、宗教権威者や議員たちなど地域の有力者の前で話すことになります。それには、主の目的があります。あかしするために、地方法院に連れて行かれるのです。

 そんな時は、足がふるえ、口がからからになり、頭が真っ白になり、質問も聞き取れないかもしれません。でも、「何を話そうかと心配するには及びません。」なぜなら、そういう場面では、あなたが語るのではなく、「あなたがたのうちにあて話されるあなた方の父の御霊」が語るからです。これは、大きな励ましです。

 あなたの人生にも同じことが起こります。親戚の法事に出席した、会社の忘年会に出た、同窓会に顔を出した、そんな時急にあなたの洗礼の理由を聞かれることがあります。テーブルにいる人々があなたの言葉に興味を持っているのが分かります。そんなとき、19~20節を思い出してください。どのように語ろうかとか、何を話そうかと心配する必要はないのです。あなたの内に住まれる神である聖霊が話してくれます。あなたは、逃げずに、祈りながら、あかしして下さい。言葉は聖霊から与えられます。

 

3、耐え忍ぶ

兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。(マタイ10:21~23)


 信仰のハーフドームを登ろうとしている人は、大きな迫害を受けます。特につらいのは、親や兄弟や子供たちから受ける無理解や激しい軽蔑や暴力です。ハーフドームを登るつもりのない人は、この種の困難には直面しません。

 家族、親族、友人などの身近な人が、あなたを迫害するときは、最後まで耐え忍ぶと覚悟を決めましょう。耐えるという決意があなたを支えます。

 アメリカ人の最初の宣教師と知られているは、アドニラム・ジャドソンです。名門ブラウン大学を首席で卒業した秀才で、1823年にビルマ(今のミャンマー)に到着しました。聖書をビルマ語に翻訳する作業に取り掛かりましたが、36歳の時(1824年)、イギリスとビルマが戦争になり、スパイ容疑で彼は投獄されました。飢え、暑さ、悪臭、虫、拷問を乗り越え、約2年後に釈放されました。彼の妻アンが夫のために食事を差し入れたことが大きな支えでしたが、同じ年、アンは病のために天に召されました。幼い子供も召されました。しばらくはジャドソンは妻の墓から離れられず、失意と悲嘆に暮れ、自身も死を覚悟しました。その後、聖書翻訳の作業に再び取り組み、完成させ、ビルマの土となるまで宣教を行いました。

主イエスの弟子となると覚悟したなら、御国の福音を真剣に伝えようとするなら、不当な逮捕、有力者の前での尋問、厳しい迫害に遭うかもしれません。そんな時は、不用意に逮捕されないように賢くて素直な心を大切にしましょう。あかしをする場面が来たら、心配せずに語りましょう。そして、迫害が襲ってきても驚かずに耐え忍びましょう。

「どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。」(19節)


→あなたの番です
 □賢く、素直で、用心を怠らない
 □あかしする時は心配しないで、御霊にゆだねる
 □迫害に直面した時は、耐え忍ぶ

マタイ10:5~15 オンザ・ジョブ・トレーニング

1、御国が近づいた

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10:5~8)

主イエスは、後継者としての十二弟子のトレーニングを始めました。簡単な説明をした後すぐに、「ふたりずつ遣わし」(マルコ6:7)たことが分かります。机に座って講義を聴くより、On the job trainingのほうが物事を効果的に学べます。

ペテロたちが二人一組になってどこかの町に入ると、町の広場などで主イエスに言われたとおりに、まず、「天の御国は近づきました。」と叫んだと思います。でも、その後、言葉に詰まって顔を赤くしたかもしれません。それで良いのです。

主イエスが語られた教えを思い出し、主イエスの言われた意味に気づき、自分の言葉になって話し出したことでしょう。

主イエスが、弟子たちの伝道対象を決めました。ユダヤ人にだけ伝え、異邦人に伝えるなと言われました。これは、第一に、祭司たちやパリサイ人を刺激しないためだと思います。第二に、一番語りやすい対象です。ユダヤ人は同国人なので、自分の言葉で自然に語れます。主イエスが羊飼いのない羊のようにご覧になった人々が対象なので、深いあわれみの心をもって語れます。

言葉につまったり、質問されたりして困ったら、病気の人を招いたことでしょう。苦しみを聞いてあげて、祈ってあげて、主イエスの名によっていやす働きを真剣にしたと思います。人々の前で病人がいやされたら、群集は弟子たちの話を真剣に聞くようになるでしょう。

主イエスは、今日も、あなたを遣わされています。まずは、あなたと似た人に福音を伝えてごらんと主イエスは励ましておられます。言葉に詰まっても構いません。イエスさまのこと、教会のこと、聖書のことを誰かに話してみましょう。そして、身近な人の苦しみに寄り添い、解決のために祈ってあげましょう。



2、何も持たずに

胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。(マタイ10:9~10)

旅に出る人は、宿屋の代金、食料、着替え、万一の場合の備えをします。それは、今も昔も同じです。主イエスは弟子たちに、お金を持たず、万が一の準備もなしに伝道旅行に行きなさいと命じました。

適量のストレスを与え、役割を限定し、なすべき事をはっきり指示するなら、短期間にスキルを上げることができます。
十二弟子は、自分がするしか他に道がないので、自覚が全然変わったことでしょう。主イエスの言葉を思い出し、その意味を深く悟ったことでしょう。目の前で病人がいやされるのを見て、神の力を確信したことでしょう。

主イエスは、十二弟子を意図的に極限状態に置かれました。主イエスは、ストレスのかかる場面で弟子たちをトレーニングされたのです。

2008年、宇宙航空研究開発機構は宇宙飛行士を募集し、963人が応募、最終選考に10人を残しました。彼らは宇宙空間と同じような狭い閉鎖隔離施設に1週間滞在させられ、ストレスのかかる作業をこなし、審査員はカメラで候補者の姿をモニターしました。必要に応じてリーダーになり、場合によってはリーダーをサポートする良きフォロワーにもなり、また、緊急事態でも冷静さを忘れず、心折れずに対応できる人材を審査員は探しました。その結果3人が選ばれ、次の訓練に進み、3人とも宇宙飛行士として宇宙ステーションで働くことができました。

 何も持たないことは、心細いです。それは、見方を変えると、すべて持っているとも言えます。「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)とあるからです。

 災害や事故への備えを万全にして、貯金も、保険も、家も、会社も問題がないと思っても、突然の大地震やサブプライムローンの破綻が起きると何の役にも立ちません。つまり、持っていると思っている人も、実は、何も持たない人と大差ないのです。

私たちの人生も旅に似ています。スーツケースが人より大きく、重くなる人は、心配性です。私たちの人生の持ち物を軽くして、主に頼って生きて生きましょう。



3、平安を祈り、ちりを払う

どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。(マタイ10:11~15)

一つの町に入ったら、伝道活動を通して知り合った人の中から、伝道拠点となる家を見つけるようにと主イエスは言われました。ぜひ我が家に泊まって下さい。あしたも教えて下さい、多くの人をいやして下さいという家族の世話になりなさいと言われました。

その家に入る時は、家のため、家族のため、平安を祈りなさいと主イエスは命じました。十二弟子は、人をいやす権威だけでなく、家庭に平安をもたらす権威まで授けられました。祈ると、その通り、神の平安が実態を持って留まりました。

伝道旅行に出ても、すべての人が歓迎してくれるわけでもありません。反発や迫害もあるでしょう。そういう時は十二弟子もがっかりしたことでしょう。そんな時には、足のちりを払い落とすという儀式にも似た行為をしなさいと主イエスは命じました。

福音を拒絶する人が受ける裁きには責任がない。そうした象徴的な行為です。目の前で病気のいやしという奇跡を見ていながらも、主イエスの福音や主イエスの弟子たちを拒む者はソドムやゴモラよりも罰が重いというのです。

○イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。
○胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
○その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。


→あなたの番です
  □あなたと似た人に、あなたの言葉で福音を伝え、平安を祈ろう
□ストレスのかかる環境は、成長のチャンス
□人生という旅で、荷物を減らし、主に頼ろう
  


マタイ10:1~4 十二弟子

 弟子はギリシア語でマセーテース。その意味は、学ぶ者です。

1、寄り添う人になる

 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。(マタイ10:1) 

主イエスは、なぜ十二弟子を選んだのでしょう。主イエスが天に上った後も、働きを継続させ、拡大させるためです。10章以降は、弟子の訓練についてかなり詳しく書いてあります。

主イエスの主な活動はマタイ9:35に簡潔に書いてあるように、①会堂で教える、②御国の福音を伝える、③病人をいやす、でした。弟子たちも同じことをする必要がありますが、まず命じられたことは病人をいやすことでした。主イエスは弟子たちに、悪霊を制する権威、病気をいやす権威を授けたのです。病をいやす権威を十二弟子に授けること自体が主イエスが神である証拠になります。
病をいやすためには、病で悩み苦しむ人たちの話を聞く必要があります。つまり、悩む人々に寄り添うことが十二弟子の最初の仕事になったのです。

あなたの番です。主イエスは、今も、弟子を求めておられます。働き人が少ないのです。あなたも、悩む人や苦しむ人に寄り添い、話を聞き、具体的に助けましょう。そういう人がキリストの弟子です。



2、変えられた弟子

 さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。(マタイ10:2~4)

 主イエスは徹夜の祈りをして十二人を選びました。(ルカ6:12~13)選ばれた人は、権力者ではなく、家柄の良い人ではなく、学問もない人でした。ほとんどはガリラヤの漁師で、まさに庶民です。

バルトロマイ、アルパヨの子ヤコブ、タダイについてはほとんど記述がありません。アンデレ、ピリポ、トマス、福音書に数度登場するだけです。せっかく弟子に選ばれたのに、イスカリオテのユダはユダヤ当局と結託して主イエスを裏切りました。

 ペテロは漁師でした。長所は、強い好奇心と積極性です。短所は、調子に乗りやすい、誘惑に弱い所です。シモンが本名ですが、主イエスが「ペテロ」というニックネームを付けました。これは、目標であり、励ましを意味する名前です。シモンはこんにゃくのような人ですが、やがてペテロ(岩)のようになる。
 十字架前に主イエスを知らないと3度言い、激しく悔い、復活の主に出会って別人のように変えられました。ペテロは神殿の門にいた足なえを主イエスの御名によっていやし、大勢に福音を語ったために捕縛され尋問を受けましたが、「無学な、普通の人」の「大胆さ」(使徒4:13)が際立ちました。ペテロは変えられ、岩のような人物になったのです。

ヤコブとヨハネは兄弟で、主イエスは彼らに「ボアネルゲ=雷の子」(マルコ3:17)というあだ名を付けました。主イエスを拒絶したサマリヤ人を焼く尽くしましょうと提案したほど(ルカ9:54)怒りっぽい人達でした。ヨハネはやがて、愛の使徒と呼ばれるまでに変えられます。ヤコブは最初の殉教者になり、忍耐の極みまで働かせました。

マタイは、十二弟子の名前のリストに、自分の名に「取税人」という解説を加えています。マタイを取税人と書いているのは「マタイの福音書」だけです。極悪非道の取税人稼業の過去を書き入れ、主から受けたあわれみを忘れないように、謙虚に生きるようにと自戒しています。

十二弟子のその後の人生を見ると、以下の事が鮮明になります。イエスは弟子を育てる天才です。
普通の人が、輝く人に変わった。
短気な人が、愛の人になった。
裏切った人が、殉教を恐れない人に。
疑い深い人が、信仰の人に。
無学な人が、聖書を教える人に。
罪人が、きよい人に。

 聖書では、主イエスを信じて、病気がいやされた人が大勢出てきます。彼らは弟子と呼ばれず、信じた人とみなされています。
 十字架から約10年後、アンテオケ教会でキリストの弟子たちはクリスチアノスというニックネームを外部の人から付けられました。(使徒11:26)それは、「キリストのもの」、「キリストの追従者」という意味です。英語にすればクリスチャン、日本語ならキリスト者です。彼らはキリストの弟子でした。

 あなたは、キリストの弟子ですか。
 主イエスの言葉の意味が分からない、キリストに質問してみたいことがある、どうしたらうまくいくのかキリストからアドバイスがもらいたい、そう思っている人はキリストの弟子です。主イエスから学ぼうとしているからです。
 信仰面で失敗したことある人、伝道してうまくいかないと悩む人がいますか。その人もイエスの弟子です。主イエスのようになりたいと願っているから悩むのです。イエスの助言を受けて、自分の生き方を変えたいと願っているからです。
 十二弟子は、何度も主イエスに質問し、何度も失敗をしました。質問する、失敗する、それが弟子の印です。このプロセスなしに弟子にはなれません。

主イエスは、十二弟子のリストの後に、あなたの名前を入れたいと願っています。「わたしについてきなさい。」(マタイ9:9)と言ってマタイを招かれたように、あなたの名を呼んでいます。自分をイエスの弟子として意識しましょう。

主イエスよ、あなたから学びます、あなたが夢見た神の国を建設するために私にできることをします、と言いましょう。主イエスが、あなたのを本物の弟子に変えて下さいます。

あなたは何を主イエスから学びますか。何を今週行って、弟子として歩みますか。

「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。」
「わたしのことばにとどまるなら、
あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)

→あなたの番です
 □弟子は、学ぶ者 □悩む者に寄り添う人になる
 □弟子になろう

マタイ9:32~38 収穫は多い

1、心を閉ざすパリサイ人

この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。
(マタイ9:32~34)

 耳が聞こえないので話せないという場合が多いので、この人が主イエスの奇跡も教えも耳から聞くことはできません。それで、主イエスを知っていた人がこの人を連れて来たのかもしれません。

 主イエスは、その人から悪霊を追い出し、話せるようにしてあげました。人々は驚きました。「そのとき足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」(イザヤ35:6)という預言の成就です。
 話せるようになった人は何と言ったのでしょう。「ありがとうございます。ずっと夢見たことでした。信じられません、私が話せるなんて。」と言ったかもしれません。

 伝道を難しく考えることはありません。主イエスを知らない人を、主イエスの所にお連れするだけで良いのです。自分がしてもらったように、してあげれば良いのです。

 この奇跡を見ても、喜ぶことなく、憤っている人たちがいました。パリサイ人です。目の前で起きた奇跡は否定できないので、この奇跡は悪霊のかしらによるものと決めつけました。最も悪いことをする悪霊が、親切で良いことをしたと言い張るのです。

 こんなに心を閉ざすのはなぜでしょう。パリサイ人は、主イエスが嫌いだからです。宗教権威者という立場が脅かされたので嫉妬心が燃え上がったのです。

 あなたにも私もすぐにパリサイ人になれます。自分より若い人が来たら嫉妬します。能力のある人、美しい人、人気のある人が来れば、私たちもパリサイ人と同じ気持ちになります。今、誰かに無性に腹が立ったり、いつもその人のあら捜しをしているなら、あなたもパリサイ人になっています。そういう自分にさよならしましょう。


2、主イエスの目

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。(マタイ9:35~36)

 主イエスがガリラヤ湖畔の町カペナウムでしたことが9章全体に書いてありました。つまり、罪を赦し、律法的な生活習慣から開放し、病気をいやし、失望している人に希望を与えて来ました。どこの町に行っても、主イエスはそれと同じことをしたのです。

 1)会堂で神のことばを教える………山上の垂訓。神のことばで人を生かす。  2)御国の福音を宣べ伝える…………神の国がある。救いがある。キングダムビルダー。  3)病気をいやし、悪霊を追い出す…現実の悩み苦しみから解放する。

 羊飼いを失った羊の状態だった群衆を無視することは主イエスには不可能でした。羊飼いを失い、良い牧草地に行けず、食べ物が無く、安全を失い、行き場をなくし、不安の中にいる羊と群集は同じだと見抜かれました。

 主イエスは人々に、神のことばを与えて魂の食物とし、福音を伝えて完全な罪の赦しを与え、神の国があることを教え、神の国を作る使命が与えられていること伝え、各人の切実な悩みを解決されました。

 あなたの周囲にいる人を見てください。本当の姿は、羊飼いのない羊です。その人のために、祈りましょう。



3、働き手が必要

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37~38)

 主イエスは弟子たちが見えないものをもう一つ見ていました。収穫を待つばかり畑です。豊かに黄金色に実った畑です。

豊作の畑とは、神の言葉を受け入れたい人がたくさんいるという事です。罪が赦され、信仰告白をし、神の国のために生きようとしている予備軍がたくさんいるという事です。弟子たちには見えませんが、主イエスには見えています。収穫は多いのです。必要なのは、刈り取る人だと主イエスは言います。

「収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と主イエスは十二弟子に言われました。あなたが十二弟子の一人で、この言葉を聞いたらどう応答しますか。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)と言うことができます。

伝道とは、実った穂を刈り取るだけの作業なのです。もう、畑は色づいているのです。私たちが誰かを教会に誘ったり、聖書の言葉を教えたり、祈ってあげたり、具体的に援助するプロセスを通して伝道ができます。

フランシスコ・ザビエルは1547年、マレーシアのマラッカで3人の日本人に会い驚嘆しました。特に、ザビエルが語る聖書の言葉をメモしながら聞くヤジロウという武士の姿に驚いたのです。日本人は他の民族と違う。ザビエルは、ヤジロウを見て収穫するばかりの畑を見たのです。1549年、ザビエルは鹿児島に上陸、平戸で100人に洗礼をさずけ、山口で500人に洗礼をさずけ、約2年の日本滞在で多くの人を導きました。


まとめます。
奇跡を見ても心を閉ざし、嫉妬するだけのパリサイ人のような生き方を止めましょう。身近な人に寄り添い、みことばと愛と手を伸ばし、主イエスのもとに連れて行きましょう。それが、収穫の働きです。


矢印あなたの番です
 □偏狭で、嫉妬する自分に、さよなら
 □自分がしてもらったように、誰かにしてあげてイエスに導こう
 □収穫は多い、あなたが働き人になろう