弱い人から強い人へ 士師記6章11~16

 アメリカのビジネスマンは握手で自分の積極性をアピールしますが、ふにゃっとした握手はビジネスマンとしては失格。時には、まるで腕相撲のような握手になり、ギュー、やりやがったな、俺も負けないぞ、ということになります。

 ここに絵本があります。タイトルは『ラチとライオン』(マレーク・ベロニカの文章と絵、とくながやすもと訳)書き出しはこうです。「この家にラチという男の子が住んでいます。ラチは世界中で一番弱虫でした。」子供たちは、この書き出しに引き込まれます。自分よりも弱虫な男の子がいると知らされて、僕のほうが強いぞと嬉しくなるのです。でも本当は、自分と同じ弱虫に出会えて、ほっとしているのです。ラチは、意気地なしで、体力も劣り、犬が怖くて、暗闇が大の苦手です。ポケットに入るくらいの赤いライオンが現れ、ラチを体力的に鍛え、心を強くするというお話です。ラチは、ライオンがいるときは勇気が出て強くなれるのでした。(続きは絵本をゆっくり読んでください。とても良い絵本です)

 弱い人から強い人へ、というのが今日のタイトルです。強い人というと何を連想しますか。力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ボブ・サップ、時代によって連想する格闘家も違いますね。
強い人というと、何か弱肉強食、弱い者を踏み潰す乱暴者というイメージが出やすいですね。ドラえもんならジャイアンですね。(ジャイアンは普通のテレビ番組ではいじめっ子なんですが、映画になるとのび太の仲間になるのが不思議ですね)

 エペソ3:16にこういう言葉があります。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」

 私たちが必要とする強さは、レスラーのような筋肉ではありません。IT長者のような知識や財力の強さでもありません。ジャイアンのようなわがままな強さでもありません。内なる強さです。内なる強さは以下の3つの要素があると思います。

1)苦しみに耐える強さ
2)神のみこころを行う強さ
3)あなたらしく輝くための強さ

 あなたが望む強さとは、どれですか。ヘブル11:34では「弱い者なのに強くされ」と書かれてあります。主はあなたを強くしてくださいます。
さて、今日の箇所にも大の臆病者が登場します。ギデオンです。イスラエルは当時ミデヤン人に悩まされていました。大勢のミデヤン人がラクダに乗って現れ、イスラエルの産物を根こそぎ奪っていくのです。7年間も同じような苦しみに悩まされていましたが、打開策はありません。
 ギデオンは、ミデヤン人を恐れて、酒ぶねの中で作業をしていました。突然現れた主の御使いにギデオンは自分の意見を述べました。

13節では、神が共におられるなら、今でも出エジプトのような奇跡が起きても良いはずだとギデオンはいらだちをぶつけました。

15節では、「ご存知のように私の分団はマナセのうちで最も弱く、私の父の家では一番若いのです」と自分の弱さをたてにとり、自分にはイスラエルを救い出すリーダーにはなれないと言いました。

 何かに似ていませんか。今のあなたです。環境が悪い。周りが悪い。私になにか行動しろったって、私にはできませんよ。

 神は、臆病者、弱虫のギデオンをご存知の上であえて言われました。

 「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」(士師記6:12)

「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(6:14)

 それも、ギデオンが反論する前に言われたのです。ギデオンは後に本当の勇者になりますが、先回りして、君は大勇者になる、と宣言されたのです。これが神のやり方です。イエスさまも同じことをされました。信仰的にまだ固まらないシモンに、お前は「ペテロ」(岩)だとおっしゃいました。

 それでは、神は今日、あなたにどんな新しい名前を付けてくれると思いますか。何を先取りして、宣言してくれますか。ちょっと考えて下さい。

 ギデオンは、この後少しずつ強くなっていきます。小さなことを手始めに、神のため戦います。国中に声をかけ32000人の兵士を呼び寄せ、その中から精鋭300人を選び出し、いなごの大群のようなミデヤン人の陣営を襲う計画を立てます。詳しくは7章15節からをご覧下さい。ギデオンにしかできない、緻密な夜襲が功を奏し、多国籍軍だったミデヤン軍の盲点を突き、同士討ちになるのです。

 神が共におられることが、強さの源泉です。6章16節でも繰り返し「わたしはあなたといっしょにいる」と書かれてあります。弱いあなたのそばに神がおられると知ることが、本当の内面的強さにつながります。

 ハワイで有名なベサニー・ハミルトンの話をします。ハワイ州カウアイ島で幼い頃からサーフィンをしていた13歳の女の子です。全米ジュニアのトップレベルの選手でした。2003年10月31日、いつものようにサーフボードの上でパドリングをしていましたが、バキッというもの凄い音と突然の痛みで辺り一面は血の海になりました。左肩から下をサメに食いちぎられたのです。サーフボードも半円形に切り取られていたことが後で分かりました。4メートル以上の大きなサメでした。仲間に助けられ、病院へ、そして緊急手術が行われ、出血多量で死の危険を乗り越え、命を取り留めました。
 ベサニーは、事件から1ヶ月で海に出ました。2ヶ月を過ぎた頃にはサーフィンのトーナメントに出ました。ベサニーはこう言います。私は神さまに愛されているんです。大きなサメに命が取られないように神はしてくださいました。私にはキリスト教信仰があります。だから強くいられます。今の私を見て、希望を持つ人がいたら、私が片腕を失ったことに意味があります。彼女のホームページにはみことばが掲げられています。

 強くしていただきましょう、全能の主に。

 苦しみに耐える強さ
 神のみこころを行う強さ
 弱さを受け入れ、あなたらしく輝く強さ

 神は、今日もあなたと共にいます。どんなにあなたが弱くても問題ではないのです。全能の神があなたと共におられるなら、あなたは強くされるのです。

希望のない人から、夢のある人へ ヨシュア記14章7~12節

今日は希望について話します。あなたは希望を持っていますか。
「はい。私も希望を持ってます。今朝、目覚ましをかけわすれて、遅刻しました」という人は希望じゃなくて、寝坊。「お料理のキンピラに使う野菜ならもってます」という人は、ゴボウ。「最近、忙しくてね」と言う人は、多忙。

 現代人の多くは希望が持てないでいます。理由が4つぐらいあります。
1)自分の能力に限界を感じ、自分に自身がもてない。
2)社会は不平等で、冷たい。
3)今までの経験や、失敗が夢を奪っている。
4)新しい事への恐れ。やっても無駄、どうせできやしないと諦めてる。

1、希望は神ご自身のうちにある

 今日の登場人物エフネの子カレブから、希望について学んでみましょう。カレブは85歳。本来なら引退年齢をとっくに過ぎた人です。ところがです。カレブはこう言いました。

 どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。
(ヨシュア記14:12)

 この時から遡ること45年前、カレブを含めた12人の代表が神に約束されたユダヤ人の定住予定地を偵察するために出かけました。詳しい様子は民数記13章1~33節にあります。帰って来て報告した10人は、征服するのは困難で、自殺行為だと否定的な内容を伝えました。カレブは、約束の地は「乳と蜜の流れる」素晴らしい地で、神がおられるので「必ずできる」(民数記13:30)と述べましたが、イスラエルの民は歓迎するどころか、彼を撃ち殺そうとまでしました。それで、不信仰に陥ったイスラエルの民は荒野で40年間を過ごし、地上での寿命を終え、約束の地に入れたのはカレブとヨシュアの二人と亡くなった人の子孫だけでした。

 カレブは40歳の時にも希望を持つ人で、85歳になってもその希望を持ち続ける姿勢に変化はありません。カレブの生涯は「主に従い通す」という言葉で特徴づけられます。(ヨシュア記14:8、9、14節、申命記1:36)これが希望を持つ人生の秘訣です。

 ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼の踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。(申命記1:36)

 カレブは自分の能力を理由に約束の地を獲得できるとは考えませんでした。「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民数記14:9)カレブは希望の土台を神ご自身に置いていたのです。他の聖書の箇所でも、希望は神ご自身にあると繰り返し述べています。

 主よ。私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。
(詩篇39:7)
イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。(エレミヤ14:8)

2、希望は、今日を生き抜く力を与える

 希望とは何でしょう。希望はどんな役割を持つのでしょう。希望は人生の目標になります。希望は暗い人生の荒海に輝く灯台になります。希望はまた、今日の生きがいをもたらします。
希望があるなら、苦しみに遭った時に辛さに耐えられます。繰り返しの毎日でも、希望があるなら繰り返しに意味を与えてくれます。

 確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。
(箴言23:18)

 主は仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。-主の御告げー彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。(エレミヤ31:16~17)

 カレブは85歳でしたが、現代世界にも<遅咲き>の巨人たちが多数います。たとえば、ゴッホは27歳で初めてデッサンを勉強し始め、37歳で地上を去るまで絵を描きました。夢を実現させるのに遅いことはありません。
 カーネル・サンダースは40歳の時、6席しかない小さなレストランを開店、フライド・チキンがおいしくて繁盛したのですが道路事情が変化し撤退を余儀なくされました。夢を失わないサンダースは65歳でチキンのフランチャイズ事業に乗り出し成功しました。今の日本なら引退年齢を過ぎてます。
 66歳の乗馬選手として北京オリンピック出場を決めた日本選手がいます。95歳で100メートルを走りマスターズ世界新記録20秒69を打ち立てた日本男性もいます。
 これでもあなたは、年齢を理由に希望が持てないと言いますか。

3、あなたの希望を書き出そう

 あなたの希望は何ですか。紙に書き出してみましょう。

 希望といっても色々なタイプの希望があります。どんな夢でもかまいません。
a) 自分の夢や願い。
ヨーロッパ旅行。マイホームを買う。願った大学に入る。ハーレーのバイクを買う。
b) 自分の人格や内面に関わる希望
愛の人になる。勇気のある人になる。きよい人になる。
c) 自分の将来に関わる希望
健康になる。幸せになる。経済的に安定する。
d) 自分の働きに関する希望
生きがいのある仕事に就く。自分の賜物に合ったポジションにつく。神の栄光をあらわす仕事を行う。
e) 身近な人に関する希望
夫の幸せ、妻の喜び、親の生活、子供の将来などについての希望。
f) 人生の出直し
大きな挫折から立ち直る。夫婦関係を修復する。

 希望を実現させるためには、今日から始めることができます。
1) 希望実現のため祈り始める、そして、祈り続ける。
2) カレブのような人から励ましを受け、あなたも誰かのカレブになる。
3) できることを、今日始める。

 そうです、ヨーロッパ旅行に行きたいなら、今日1ドルを貯金箱に入れましょう。

さあ、始めよう。希望を神におきましょう。
 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

「嫌われる人から好かれる人へ」 マタイ7:12

 これから「チェインジ」と題して7回シリーズのメッセージをします。全体を貫くポイントは、聖書を読むだけで終わらせず行動に移そうという趣旨です。
 今日は、「嫌われる人から好かれる人へ」というテーマです。

1、「くれない族」を卒業する

 嫌われる人とはどんな人でしょう。

   自己中心で我がままな人。
   劣等感が強すぎる人。
   否定的な人。
   不誠実な人。

 子供のころ愛されなかった。嫌われる人に共通した原因は、これかなと私は思います。お前は馬鹿だ、ブスだ、デブだ、要領が悪い、そんな事を言われ続けた人は、曲がった盆栽のような大人になります。自分の中に問題の原因があることに気が付かず、周囲の人だけ責めて生きる人が多いのです。
 「愛してくれない」「分ってくれない」「聞いてくれない」「一緒にいてくれない」。こいう人たちのことを、私は「くれない族」と呼んでいますが、周囲を責めるのはやめて、くれない俗は卒業しまししょう。

 まったく笑わない少年がいました。お母さんに捨てられ、片身の狭い思いをして他人に育てられた少年でした。成長したある日、母の日記を読む機会が訪れました。文章を読んで驚きました。息子を捨てた後悔と痛みがつづられていました。自分を責める思いから、包丁で指を切り落としたという記述を見て、母の気持ちが伝わってきました。この男性は、私が尊敬する伝道者の若き日の姿です。

 イザヤ49:14~16
しかし、シオンは言った。
「主は私を捨てた。主は私を忘れた。」と。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、
この私はあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらに
あなたを刻んだ。」

 福音とは神があなたを愛していること。これは、マザー・テレサによる福音の定義です。神は今のあなたを、そのままで愛しています。神に愛されていることに、安らいでください。これが、くれない族を卒業するコツです。

2、キリストだけを見る

 青年たちに助言します。女の子しか見てない男、男性に評価を受けてない男は、将来の伴侶としては除外しておいたほうが賢明ですよ。
 キリストを見ている人は、男でも、女でも、魅力があります。好かれる人になりたかったら、人を見ずに、キリストを見る人生を送ることです。
 
 大学生の夏のキャンプが開かれて、分科会で議論が沸騰したことがありました。一人の男性大学生クリスチャンが女性クリスチャンと意見がぶつかったのです。主イエスのために、こう思うとお互いが譲らす、分科会が終わっても二人は議論を続け、もっと長く議論したいと結婚してしまいました。私が高校時代に導かれた教会の牧師先生の結婚の逸話です。

信仰の創始者であり、完成者である方から目を離さないでいなさい。
(ヘブル12:2)

 修養会の講師であった佐藤彰先生に昨年私の家に泊まっていただきましたが、「イエスさまだけ見ていこう」という事で意見が一致し、意気投合しましたことを思い出します。キリストだけ見て、歩いている人は、実に魅力があります。

3、小さな愛を実行する

 チャップリンの映画『ライムライト』に有名なせりふがあります。「人生には、勇気と想像力、そしてほんの少しのお金があればいい」。私も同感です。人生には勇気がどうしても必要です。自分から一歩を踏み出すことが必要です。
 日本人女性クリスチャンの特徴をひとことで言うなら、「おしんクリスチャン」です。夫の横暴に耐える、夫の無視に耐える、夫の悪口に耐える、こういう姿が思い浮かびます。耐えることと似て非なるものは、具体的に愛すことです。耐えるという受身形から、愛すという能動態に変える必要があるのです。

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、
ほかの人にもそのようにしなさい。
これが律法であり預言者です。(マタイ7:12)

 主イエスは、「そのようにしなさい」と言っています。僕らも、そのように実行しましょう。

 私のアパートにメンテナンスのワーカーが昨日来てくれました。苦虫をつぶしたような顔のメキシコ中年男性でした。浴槽の蛇口の水漏れを修理して一息ついたときに、私はこう言いました。うちの娘はスペイン語を勉強していて、グラシアスとかオレ!とか単語を教えてくれるよ。すると、表情がみるまに変わり満面の笑みになりました。帰り際には、メキシコに来なよ、案内するよ、と言ってくれました。一人の人間が、ニコッとしてくれたら、それで僕らは幸せです。

 マザー・テレサは言いました。愛は、家庭から始まるものだと。さらに、愛は祈りから始まる、と言いました。本当にそうだと思います。あなたの身近な人、家庭の親でも、配偶者でも、子供でも、そういう人に愛を届けましょう。

 『愛を伝える5つの方法』(ゲーリー・チャップマン、いのちのことば社)という本は実に具体的で、生活を変える力のある本です。その中に、ジムとジャニスの夫婦の話が書いてあります。結婚12年、子供が3人、夫のジムは真面目ですが、モノサシが歩いているような人で、妻の立場からは心が通じないし、愛されていないと感じ、ジャニスは離婚を口にしていた時でした。チャップマン先生の結婚セミナーに夫婦で出席しましたが、夫は表情を変えません。翌週のこと、月曜に、夫はバラの花を持ってきました。火曜に、夕食用ピザを買って帰りました。水曜は、子供にはお菓子、妻には鉢植えの花。木曜は、カードを渡し<自分は愛を伝えるのが下手だけど、君を愛してる>と書き添え。金曜は、奥さんの大好きなクッキーを持ち帰り。土曜は、子供をベビーシッターに預けてディナーに二人で出かけました。同じようなことは毎日できないけど、1週間に一度これから愛を形で伝えるよとジムは約束、1年で52回の贈り物を愛を込めて渡し、それを3年間続けて、チャップマン先生に報告したというのです。

 自分にしてもらって嬉しい事、それを相手の立場になって考え、祈り、あなたの愛を伝えましょう。今週、何か一つ、具体的に身近な人に愛のアクションを取ってください。そして、来週、教えてくださいね。聖書はあなたを変える、あなたは、家庭を変える。家庭は社会を変える。勇気を持って実行しましょう。



 

ヨブ記42:1~17 「ちりと灰の中で」

 我が家では今、第3次ジグソーパズル・ブームの真っ最中です。「あんなもの、何が面白いのか」と昔は思っていたのですが、やってみると案外面白いのです。小さなピースが一つ入るだけで達成感が得られ嬉しいのです。
 人生とジグソーパズルには共通点があるように思うのです。一つのピースだけでは何が何だか分りません。それでも、忍耐深く完成図を見つめると、それがどこにはいるべきか分ってきます。残念ながら人生の完成図は僕ら人間には見えません。けれども、神はそれを確かに持っておられるのです。湖のほとりに立つ白亜のノイシュバインシュタイン城の美しい景色がよくパズルの絵柄に使われますが、神が私たち一人一人のために作られた人生の絵柄はその何倍も美しいものに違いありません。

 ヨブは一日にして子供全員と財産のすべてを失い、つらさに耐えかねて生まれた日をのろいました。慰めに来たはずの友人3人はヨブを誤解し、悔い改めよと強い調子で迫り、議論は平行性を続けました。「ヨブは自分が正しいと思っていたからである。」(32:1)とありますが、これを理由に友人3人はヨブを見限りました。その後、エリフが若者らしい純粋な視点から持論を展開、その間に友人3人は席を外したり、家路についたのかもしれません。

 38章で、神は嵐の中からヨブに現われ、ヨブの直面したすべての事柄の中に、神の摂理があることを説明しました。
ヨブは神の知恵と神の創造のみわざに圧倒され、自分の愚かさにはじめて気づきました。
「ああ、私はつまらない者です。
あなたに何と口答えできましょう。
私はただ手を口に当てるばかりです。」(40:4)

 神はヨブの問題点を容赦なく指摘しました。
「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。
自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。」(40:8)

 神は、ご自身が造られた自然の脅威をヨブに示し、やぎ、ろば、牛、だちょう、馬、ワシ、カバ、レビヤタンなどの動物を列挙、神の知恵と力の偉大さをヨブに示されました。

 ヨブはついに、悔い改めます。友人から何度も悔い改めを迫られても心を硬化していたヨブが幼子のように素直になりました。
「あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、
私は知りました。
知識もなく、摂理をおおい隠した者は、
だれでしょう。
まことに、私は、
自分で悟りえないことを告げました。
自分で知りえない不思議を。」(42:2~3)
「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、
ちりと灰の中で悔い改めます。」(42:5~6)

 ヨブの悔い改めを聞いた神は、ヨブの友人3人に対する怒りを表明されました。
「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。(42:7)
 神は、友人らの意見が神についての真理ではないと糾弾されました。その代わり、ヨブを<神のしもべ>と認知し、高く評価されました。ヨブにとって溜飲の下がる場面だったでしょう。

 友人3人は戻って来て、罪の悔い改めと神との和解を意味する<全焼のいけにえ>をささげました。ヨブは友人たちのために祈りました。祈りの内容は、友人らの非道、誤解、中傷を赦すという意味でしょう。この祈りがささげられると、ヨブの体は元通りに回復しました。また、財産も当初の二倍となり、10人の子宝に恵まれ、親戚知人がヨブのもとに戻ってきたことが伝えられました。3人の娘の美しさの描写は、ヨブの後半の人生の豊かさや彩を象徴的に表すものです。

 神の前で、徹底的に打ち砕かれた人の姿は美しいものです。ヨブが、友人3人のために祈る姿もまた美しい姿です。ヨブのように、非難する者のために祈ることが真の回復につながるのです。

 フランスの医師であり、クリスチャンである、ポール・トゥルニエは著書『人生を変えるもの』の中で、「生きる目的は苦しみをなくすことではなく、苦しみを実りあるものとするところにあります。」と述べています。

 1877年岩手県生まれのキリスチャン男性がいました。軍国主義化の日本で、さらに田舎でクリスチャンになることは、親戚から絶縁されたり村八分になることを意味していました。教師であった彼は、仕事を辞めざるを得ませんでした。親への迫害は、その子供に対するいじめの連鎖を生み、1908年彼の9歳の娘は子供仲間から腹部に暴力を受け、それが元で翌年亡くなります。隣家で火災が起きれば、ドサクサに紛れ家を破壊されました。彼はそんな中で新聞配達の仕事を黙々と続け、子供に出会えば飴玉をやり、病人がいれば見舞い、悩みのある人の友になりました。そんな生活を20年続け、1926年9月、内村鑑三に呼ばれて町を離れ東京に旅立つことになりました。見送る人は誰もいないと予想した彼でしたが、駅には、町長、学校教師、僧侶、神主など町の名士はじめ、多くの町の人が彼を見送るために集まっていました。誰もが、彼との別れを惜しみました。それほどに尊敬される人になっていたのです。その群集の中に若き日の宮沢賢治も見送りに来ていました。見送られる40歳過ぎの男性の名は斉藤宗次郎。内村鑑三の最後を看取り、後に同氏の全集を編集した人物です。宗次郎の日記や手紙などから宮沢賢治との交流が知られる事となりました。有名な賢治の詩「雨ニモマケズ」のモデルになった人物といわれています。「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」の言葉が印象的です。
 斉藤宗次郎の生涯は人に知られず、苦難だけで終わった人生に見えましたが、実は多くの人を励ます人生と変えられていたのです。神のジグソーパズルは、荘厳で美しい絵として完成したのです。
 
 あなたの人生には、深く温かい神の摂理があります。我々は何も知らない者なのです。静かな心で、神を見上げましょう。穏やかな目で他者を受け入れましょう。今日なすべき事を神と共にしていきましょう。
 あなたの出会った不条理ともいえる苦難が、ため息と絶望に終わるのでなく、誰かの慰めになり、深いうなずきとなり、最終的には主への賛美と変わるように私は祈ります。
 「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」(42:12)

ヨブ記38章1~41節 嵐の中で語られる主

ヨブ記の結論部分に入ります。

 ヨブと友人3人の対話は、平行線をたどり、感情的にもつれ、堂々巡りに陥り、ついに31章で暗礁に乗り上げました。「この三人はヨブに答えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。」(32章1節)
 議論を聞いていた若者エリフは怒りに燃え、32章から37章で持論を展開しました。荒削りで率直な若者らしい意見です。その中身は、38章以降で神がヨブに直接語りかける内容に、かなり似ています。ヨブが神を見上げるための道筋をエリフが整理したともいえます。

 それまで沈黙を保ってこられた神が38章でヨブに語りかけます。
「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
知識もなく言い分を述べて、
摂理を暗くするこの者はだれか。」(38:1、2)

 第1に、「答えて仰せられた」に注目してください。
神の沈黙と感じられた長い時間は、神が傾聴しておられた時間だったのです。苦難の中でヨブが発したすべての言葉は神に聞かれていたのです。それで、神は答えたと書かれているのです。深い思いやりと忍耐があって初めて、打ち明け話や恨みつらみを長時間聞けるのです。神はあなたに沈黙しているのではない。神は、あなたのうめきと悲しみ、祈りにできないあなたの心を聞き取っておられるのです。
 エリフは36章15節で「神は悩んでいるものをその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。」と言っています。

 第2に、「あらし」に目を留めてください。
嵐とは何でしょう。神の怒り。神の力。神の臨在。それらすべての表れとみることができます。いつもの風が止み、黒雲が湧き出て周辺を暗くしたかと思うと、強烈な風がゴーゴー吹き荒れたのでしょう。稲光が怪しく光り、大音響の落雷も起きたかもしれません。おそらくヨブは、風をまともに顔で受け止めながら、神の声に耳を傾けたことでしょう。
 順風満帆のとき、人はのほほんとなって神を忘れるものです。けれども、人生の嵐に直面すると、真剣に神を求めます。そういう意味から、嵐の経験こそが意義深い経験と思える日がきます。

 第3に、「摂理を暗くする」を見てください。
 神がヨブに語られた中心メッセージは、ヨブの知識があまりにもお粗末だという指摘です。不十分な知識で語り続けるなら、節理を暗くすると指摘されました。有限で罪深い人間は、実は何も知らないのです。
 摂理を暗くするとは、どんなことでしょう。ヘブル語で「エーツァー」という言葉を、新改訳聖書は「摂理」と訳し、他の聖書は「はかりごと」、「経綸」などと訳しています。摂理とは、私たちが知りえない崇高で深遠な神の支配を表します。
 その神の支配や深いみこころ、思いやりを疑ったり、曲解してはいけません。運命は冷たいものですが、摂理は温かいものです。私たちの試練や苦しみを大きく包み込む神の摂理に信頼しましょう。


 

上滑りする言葉 ヨブ記22章1~30節

 今日のメッセージの副題を、「信仰ゆえの楽観・積極人生の勧め」とします。

 あなたは悲観的な人ですか。楽観的な人ですか。今、ため息をついた人は悲観的な人です。自分が楽観的な人だと思う人は手を上げてください。手を上げられた人は本当に楽観的な人だと思います。「あの人がそうは思えない」と心で思った人は、間違いなく悲観的な人です。

 ヨブ記22章は、議論がちょうど三巡目に入った場面です。ヨブの友人三人の中で最長老格に当たるエリファズが意見を述べたのが今日の箇所です。エリファズはヨブとの対話を重ねるうちに苛立ちが先行するようになり、なりふり構わずヨブを説き伏せようという姿勢になりました。
22章でエリファズは、否定的で、上滑りした意見3種類を述べます。

1) ヨブがどんなに正しくても神には関係ない。

「人は神の役に立つことができようか。
賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。
あなたが正しくても、
それが全能者に何の喜びであろうか。
あなたの道が潔白であっても、
それが何の益になろう。」(2、3節)

 なんと悲観的な意見でしょう。罪深く、有限で、弱い私たち人間をご存知の上で、神は様々な使命を人間に与えてくださいました。神は人間に失望してない、神は人間に期待している、というのが聖書を貫く中心思想です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:3)とはっきり書かれています。時として我々もエリファズのような悲観論に飲み込まれるときがあります。

 悲観的な人の声は巷にあふれています。人間の声を録音しようした人がいました。そんなもの不可能だと意見が出ました。いまだかつて誰もできなかった、というのが反対理由でした。それを無視してエジソンは1877年蓄音機を作りました。
 ミルトン・ライト牧師は、人間が空を飛ぶなどありえない事だとメッセージで語りました。その息子のウィルバーとオービルは、1903年12月17日キティーホークの海岸で12馬力の飛行機で世界ではじめて人間の乗った飛行機を飛ばすことに成功しました。
 1978年、日本のある電気会社で録音ができないテープレコーダーを発売することにしました。<録音できなければ誰が買うか>、<そんな変な和製英語では恥ずかしい>とか、否定的な意見が出ましたが、やってみました。これがSONYのウォークマン誕生の経緯です。


2) ヨブはひどい悪を行っている。

「あなたは理由もないのに、
あなたの兄弟から質を取り、
裸の者から着物を剥ぎ取り、
疲れている者には水も飲ませず、
飢えている者に食物を拒んだからだ。」(6~7節)

 これは、事実ではなく、エリファズの邪推です。第一、裸の人からは着物は剥ぎ取れません。
思い出してください。エリファズが最初に口を開いたとき何と言ったか。4章3~5節で、ヨブの善行を高く評価して、しっかりしろ、お前は他人が苦しんだときは助けてきたじゃないか、それが自分に及んだ時にはしゃんとしろ、と言っていたのです。

 悲観的な人は、人の悪い面ばかり見ます。人の欠点だけが目に入ります。さらに、かってな妄想、思い込みで、人をどんどん悪く仕立て上げていきます。人の良い点を見ましょう。

 日本プロ野球伝説の打撃コーチと呼ばれる高畠という人がいました。首位打者や盗塁王などのタイトル獲得選手を30人育てあげ、引退後は福岡で高校教師になり、NHKドラマにもなりました。その原作『甲子園への遺言』という本を読んでなるほどと思いました。
高畠コーチは選手の悪い癖や欠点は直らないものだと言い切りました。それではどうするか。徹底的にほめるのだといいます。30年間、ほめ続けました。あるときは、スイッチヒッターへ転向させた選手に秋から春まで付きっ切りで指導しました。はじめて左打席に立ったとき、「いけるぞ、これならいける。いいセンスしてるな」最初からほめ続けたといいます。この選手は後にパリーグ首位打者になりました。良いところを伸ばす。これが高畠コーチの秘訣でした。ほめた時はじめて人は伸びるのです。

 世界には、見方と敵がいるのではありません。自分の心が敵を作るのです。世界にいるのは隣人だけですね。その隣人を愛しましょう。その隣人に励ましの言葉を贈りましょう。

3) 神に立ち返れば、幸せになれる。

「さあ、あなたは神と和らぎ平和を得よ。
そうすれば幸いが来よう。」(21節)
 
エリファズは、邪推に基づきヨブを悪人に仕立て、どんなに潔白であったとしても神の役には立たたないとやる気を失わせた後で、こういう正論で説教しました。
ヨブは聞く耳を持ってなかったでしょう。文脈を無視して読めば、まぎれもなく聖書の真理です。良い言葉です。正しい言葉です。でもこれがヨブに向けられた言葉なら、むしろ逆効果でしょう。

 22章は、さしずめ、人の振り見て我が振り直せという箇所ですね。反面教師、他山の石ですね。こうならないようにしなさい、というのも実は後ろ向きですね。積極的な表現でメッセージを締めくくりましょう。
誤解しないでください。皆がイケイケのあっかるい人になれと言っているつもりはありません。神を信じているなら、全能者である神に頼って楽観的に行きましょうと勧めているのです。

最後にあなたへの具体的な3つの提案をします。

① <やってみよう>の精神を持ちましょう。
② 人をほめて励ましましょう。
③ 心からの言葉を伝えましょう。

 エリファズは、やってもダメだと言いました。そんなことないですよ。神がおられるんだから、あきらめることはないのです。やってみよう。神は私たちを絶えず応援しておられる。
エリファズは人の悪い面ばかりを強調した。むしろ、人を応援する者になろう。あなたも雇われてプロのコーチになったつもりで、身近な人をほめて、ほめて、励まし続けよう。
エリファズは上滑りする言葉でお説教しました。それより、何千倍も価値があるのは、前向きで、さわやかな積極的言葉だ。
  ありがとう。
  嬉しいです。
  やってみましょう。
  感謝します。
  おはようございます。
  おいしいです。
  私がやります。

さあ、あなたの番です。神の力によって、やってみましょう。
 
 

贖う方 ヨブ記19章1~29節

 海外に生活する我々は日本の流行語に言葉に面食らいますが、「KY」という言葉を知っていますか。政治家までが使っていますよ。K(空気が)Y(読めない)という意味らしいです。「あいつはKYだからね」と使うようです。使い方が間違っていたらお許しを、私もKYの部類かもしれません。
 私たちの日常生活は困難が多いですね。空気を読めば、「もうだめだ」と結論付けたくなる状況ばかりです。あなたは現実だけに目を留めていませんか。神の真実に目を向けてください。あれもこれも頭の痛い問題ばかりですが、朝、一人で聖書を読むと、神の真実に目が行きます。

 ヨブは実に惨めな状況にいましたが、神の真実に突然のように気づいた人です。今日の箇所にはヨブ記の重要聖句が25節に登場します。
「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

 ヨブは、神に責められたと感じていました。
「神が私の道をふさがれたので、
私は過ぎ行くことができない。
私の通り道にやみを置いておられる。」(8節)
 栄光も望みも神に奪われた(9~12節)とヨブは一人で思い込み、神の軍勢に攻め込まれていると感じていました。もちろんこれはヨブの主観的な判断です。

 ヨブは友人や家族からも見捨てられたと感じていました。
「私の親族は来なくなり、
私の親しいともは私を忘れた。」(14節)
「私が自分のしもべを呼んでも、
彼は返事もしない。」(16節)
「私の息は私の妻にきらわれる。」(17節)
「私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、
私の愛した人々も私にそむいた。」(21節)

 自分の置かれた空気をヨブが読むなら、出口なしです。でも、出口なしという空気を読まずに、前に進んだ人の姿は多くの人に勇気を与えます。

 小学校の先生が中学に進学した女の子を次のように励ましました。水泳が大好きでオリンピックに出たいと言ってたじゃないの、学校にプールがないくらいで夢を捨てちゃだめ。それに勇気を得て、水泳を続けた女子有名選手がいます。

 次に、自分の声が人と違うので恥ずかしいと思っていた少女がいました。親からもらった声を大事にして、むしろ鍛えなさいと励ましたのがお母さんでした。演劇部に入って前向きな人生を選んだこの女性は、後に有名な声優になりました。人とは違う変わった声こそがむしろチャームポイントになったのです。

 KYなんて打ち破って生きたこれらの人々は多くの人を力づけます。ヨブも、神に苦しめられたと思い込み、人には見捨てられ、出口なしの状況でしたが、前後脈絡関係なく、唐突に、魂を貫くような信仰告白を25節でしました。「私は知っている」という言葉に注目しましょう、ヨブの強い確信がにじみ出ています。

「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

 「贖う」という言葉の意味を考えましょう。経済的に困窮し先祖代々の土地をやむなく売り払った時、落ちぶれて奴隷になってしまった時、身内の者が高価な代価を払って買い戻すことを普通「贖い」といいます。
 聖書では「贖い」を広義に使用しています。「敵」(ヨブ6:23)、「労役」(出エジプト6:6)、「苦しみ」(詩篇25:22)、「いのち」の危険(詩篇103:4)、「しいたげ」(詩篇119:134)、「罪」(イザヤ6:9)などからの救いのときに、「贖い」を使います。

 父なる神を贖い主と呼ぶ箇所は聖書に多いのですが、主イエスが生まれる前にヨブは救い主を信仰の目で見て、贖うお方であると言い切っています。イザヤ53章を除くと、こんなに鮮やかに救い主の姿を予告した箇所は旧約聖書にはないと私は思います。

 贖う方がちりの上に立つ、とヨブは言っています。ちりとは何でしょう。ヨブが今座っている場所こそが、ちりです。ヨブにとって「ちり」は、悲しみと絶望と惨めさと死を象徴するものでした。1日に10人の子供と全財産を失った悲しみから、ちりを頭からまき、ちりの上で悲しんだのです。ヨブが慕う贖い主も、ちりの上に立つというのです。イエス・キリストは、ユダヤ人指導者に誤解され、ねたまれ、弟子に裏切られ、死の苦しみを通った方でした。まさに、ちりの上に立つ救い主です。

 神を信じ仰ぐ行為は、合理的でも論理的でもないと見える時があります。まわりの状況からいうと、とんでもなく飛躍しているとみられます。でも、神というお方が本当に生きておられるなら、それは無茶でも、無謀でもないのです。一番安全で確かな生き方なのです。「私を贖う方は生きておられ」とありますね。
 現実だけに振り回されず、神の真実に立って進みましょう。私たちをあらゆる困難から救い出してくださる方がおられるのです。そのお方が生きているのです。勇気を出して進みましょう。