ローマ15:4 希望の書

  霊感された神の言葉、聖書は、私たちの人生に3つのものを与えてくれます。第一に忍耐、第二に励まし、第三に希望です。あなたが、今日必要なものは何ですか。

1、忍耐

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)

大きなリュックに重い本などを詰めて、学校のグラウンドを来る日も来る日も何週も歩く男性がいました。ヨセミテの奥深くに単独で入る訓練でした。鍛えれば筋肉は強くなり、苦しめば精神力が鍛錬され、高山の厳しい環境に耐えることができるのです。

忍耐は苦しみに耐える力です。苦しみに意味が見出せれば、私たちは苦しみに耐えられます。

過保護のママに育てられ、忍耐の訓練を受けなかった子供が大人になると、どうなるでしょう。長続きしない。すぐに文句を言う。人のせいにして、責任を取らない。楽しみを先延ばしすることができない。
忍耐は、実際に苦しむことを通して初めて身に付くものです。

けれども、この聖書箇所では、聖書を読むだけで忍耐が身に付くと書いてあります。それは、聖書の登場人物の経験に自分を重ね、神の介入の約束を信じることで忍耐する力が神から与えられるからです。

アブラハムも子供が与えられるまで長く忍耐しました。モーセは荒野で羊飼いを40年間しました。ヨセフは奴隷として売られ、エジプトの牢屋に入れられました。ヨブの忍耐は驚嘆すべきものです。こうした人々の苦労を読むと、今日の私たちが励まされます。忍耐すれば祝福が来る。我慢が豊かな品性を築くと信じられるのです。

「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:4)


2、励まし

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)

多くの人が映画館に出かけるのは、なぜでしょう。励ましてもたいたいからお金を払っても行くのです。大画面と大音響と魅力的な人物たちによって、諦めるな、You can do it!と言ってもらいたいのです。君は愛される価値がある。やり直せる。そう言ってもらいたいのです。

創刊50年を越え、週刊誌の日本最高売り上を記録した雑誌マンガ雑誌の「週間少年ジャンプ」には3つのキーワードがあります。友情、努力、勝利。皆、励ましの要素ばかりです。

励まされる事の反対概念とは何でしょう。馬鹿にされる。無視される。一人ぼっち。頭から否定されること。私たちは、励ましの代わりにこうした否定的な言葉を聞いて生きています。

バッテリーがだめになって、誰かに助けてもらった人がいますね。ジャンプケーブルでつないでもらうと、動けなかった車のエンジンがかかります。励ましを受ける事は、その状態に良く似ています。落ち込んでいたはずの自分の中に、新たな意欲が湧き出てきます。決心がついて、実際に行動に取り掛かれます。

励ましとは、自分の外側からやってくる人格的な応援のことです。

励まされると、やる気が出ます。励まされると失敗から立ち直れます。喜びが生まれます。毎日の繰り返しに新鮮さが生まれます。別の方法に気づきます。肯定的な思考になります。
神は、行き詰った人を何度も励ましています。肯定的な言葉、愛の言葉、共にいるという安心感の提供、使命に目ざめさせる言葉、時には厳しい罪の指摘による励ましさえあります。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。(使徒23:11)

正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。(箴言24:16)

ノーベル賞作家パール・バックは、「何事も、不可能だと証明されるまでは可能だ。しかも、それは、今は不可能ということでしかない」という元気の出る言葉を残しています。


3、希望

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)

カールズJr.のコップにこんなことが書いてありました。コップに半分しか入っていないと考えるか、半分も入っていると考えるか。あなたはどちらのタイプですか。
本当はどちらでも良いのです、何回もソーダをリフィールできるのですから。

希望の反対は、失望というより落胆です。もうだめだ。何をしてもうまくいかない。否定的な気分に支配されるのです。
有名な物語や映画には、決まってネガティブな脇役がいて、ヒーローを際立たせる役割を担っています。スターウォーズの登場人物なら、金ぴかロボットのC3P、ナルニア国物語なら「どろ足にがえもん」です。あなたが否定的な脇役になる必要はありません。あなたが人生の主役なのですから、希望をもらって前に進みましょう。

もしあなたが、忍耐という状態にいるなら、涙があるかもしれませんし、あなたはきっと一人で苦しみに耐えているところでしょう。そんな時に、あなたの外から、あなを愛する神から励ましの言葉が届きます。あなたの外側から希望の火があなたの心に点火されます。すると、あなたはいつの間にか希望に向かって歩き出していることでしょう。

希望を持つと、可能性を信じられるようになります。未来の絵を描けます。神が共にいるので、安心感が周りをおおいます。願いがかなうという楽観的な見方ができます。目の前の困難が小さく見えます。否定的な気持ちを捨てられます。まだ間に合うと思えます。

聖書には、希望の言葉があふれています。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(第1コリント13:13)

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第1コリント10:13)

聖書が単なる知識や知恵の総合案内ではなく、神が忍耐と励ましを与え、希望の火をともしてくれる書であることが分かるでしょう。

神は、聖書でこう伝えたいのです。
あなたの存在を喜んでいる。
あなたの罪を赦したい。
過保護にせず、あなたを鍛えよう。
あなたは必ず成長できる。
あなたは、誰かを励ます人になれる。

ルサーとジェニーは第二次世界大戦前に結婚した若い夫婦でした。ルサーは空軍に入りB-17爆撃機の乗組員になりヨーロッパ戦線に遣わされました。2年間会えない日々が続きましたが、ある日夫から手紙が届き、編隊が移動する際に愛するあなたの上を飛ぶという知らせが届きました。その日、ジェニーは空を見上げました。町の人も大勢その様子を見に集まりました。下の窓からルサーが手を振るのが見えるほど爆撃機は超低空でやってきて、一つの小箱をパラシュートに付けて投下しました。箱の中にはヨーロッパのみやげや手紙が入っていました。
数日後、ジェニーは不思議なドレスを着て町を歩きました。迷彩色のパラシュートを切り抜きワンピースに仕立てたドレスでした。ルサーの愛に包まれて歩いていたのです。

あなたに投下された神からのプレゼントが聖書です。それを読むと忍耐が与えられ、励ましで力づけられ、希望を持てるのです。あなたは、神からの愛のパラシュートを身に付けて毎日を生きることができるのです。聖書はそんな、希望の書です。さあ、毎日聖書を読みましょう。


→あなたの番です
□つらくても我慢しよう。苦しみに意味がある。
□神の励ましをしっかり受け止めよう
□神に希望を置いて、行動を起こそう。まだ間に合う。

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)


イザヤ40:8 永遠の言葉

奥さん達は、定年した夫に対して以下のような不満を持っています。
・毎日3食作るのは面倒
・一日中ゴロゴロされるのがイヤ
・12時ぴったりの昼食を期待するな
・二人しかいないのに、会話がない
・家事を手伝ってくれない
・いい加減に自立してほしい
・電話でおしゃべりもできない
 そうは言っても、男たちはなかなか変われません。

 今日は、聖書が変わらない神の言葉であることを二つのポイントからお話します。それをふまえて、変わらない神の言葉こそが私たちを変えるものだという事を語りたいと思います。

1、滅びなかった聖書

 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)

 イザヤ書の転換点が40章です。滅びのメッセージを語ってきたイザヤが、希望と回復と慰めを語り始めるのがこの章からなのです。
 イザヤ40章2節は、罪が赦される希望が語られ、3節からは王の帰還に備えて道を整えよというメッセージになり、6~8節はすべての人が草や花であり滅びていくものだが、神の言葉はとこしえに変わらず、信頼に足る神の言葉だと指摘しています。

 前回、聖書が書記者により注意深く伝えられたとお話ししましたが、歴史を振り返ると聖書は迫害を受け続けた書物だと言えます。
 紀元303年ローマ皇帝ディオクレティアヌスは聖書を焼き尽くすようにと命令を出しました。不思議なことに、それから9年後の312年、皇帝コンスタンティヌスはキリスト教を国教と制定しました。

 その後、聖書はラテン語に翻訳され公式聖書となりました。やがてラテン語は知識階級しか読めない言語になり、庶民が聖書を読めるようにと努力する人が現れました。
 ジョン・ウィクリフは1382年にラテン語から英語に聖書を翻訳しました。この翻訳は当事のイギリスでは受け入れがたい事で、カトリック教会はこうした翻訳を異端扱いしました。

 啓蒙主義時代の哲学者ボルテールは、「100年たてば、人々は聖書について何も聞かなくなるだろう」と語り、聖書が非科学的で価値のない書物だと言い切りました。

 最近の50年間で最も読まれた本という統計がありますが、それによると、聖書はナンバーワンになっています。博物館に飾られたのは、むしろボルテールの本でした。
1、聖書                  39億部
2、毛沢東語録             8億2万部
3、ハリーポッター       4億部

 聖書は、滅びることがありませんでした。紀元1500年から書き始められた書物は、3500年の年月を越えても今なお、人々に愛され、読まれ、大きな影響を与え続けています。



2、成就した聖書の言葉

 聖書の特殊性は、単なる道徳の教科書や哲学書ではないということです。聖書が神の言葉であるという証拠の一つは、預言が実現することです。神が「なる」と約束されたなら、その通りになるのです。

 モーセが書いた申命記には、様々な預言があり、後の時代にそれが成就しています。その数があまりにも多いのですべてを紹介するなら1冊の本が書けるでしょう。

 「主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。」(申命記28:37)

申命記28章は、ユダヤ人が神を忘れ、神にそむくなら大きな災いが襲うという預言の箇所です。ユダヤ民族はこの言葉の通り、紀元70年に国を失い、流浪の民となり、大きな困難を後に経験しました。

 「見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し地の果てから彼らを集める。その中に目の見えない者も足のなえた者も、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。」(エレミヤ31:8)

 預言者エレミヤは、国を失ったユダヤ人が、必ず帰還すると預言しました。多くの人は、この預言の成就はあり得ないと考えていました。ですが。1948年にイスラエルが建国されると、世界中は驚きました。ユダヤ人移民が世界中からやって来て、建国から4年間で人口は65万人から130万人と2倍に増えました。また、ソ連の崩壊により、ロシアから100万人のユダヤ人が大挙してイスラエルに押し寄せました。「彼らを北の国から連れ出し」というエレミヤの預言の言葉に目を奪われます。

 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中では最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)

旧約聖書には、主イエスの誕生、生涯、十字架、復活などの預言が豊富にあります。上記のミカの言葉は、主イエスがベツレヘムで生まれるとの予告です。本来ガリラヤ地域のナザレに生活していたマリヤが、ローマ帝国の人口登録の法令によりベツレヘムに出かけた時に出産しました。聖書の預言は驚くばかりの正確さです。

 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)

有名人もやがては死にます。人間の文明も滅びます。信頼していた人も裏切ります。確かなものはこの地上にないとさえ思えます。
たった一つ、変わらないものがあります。それは神の言葉、聖書です。私たちの神のことばは永遠に立つのです。

「イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)
永遠に変わらない神と神の言葉によって、私たちは「変わること」ができるのです。変わることのない愛で愛し続けて下さる主イエスを信じ、主イエスと共に歩みなら、私たちの内に変化が起こります。その変化を経験して下さい。

→あなたの番です
 □聖書は変わらない神の言葉
 □変わらない聖書を人生の土台とする
 □主イエスを受け入れ、変えていただく

第2テモテ3:16 霊感を受けた聖書

今回は、3つの神学用語を手がかりにして聖書について考えます。

1、啓示

モノを調べるときは、客観的に観察すれば理解できます。でも、人格を持った存在は、相手が黙ってしまえば何も分かりません。神は、ご自分の方から語り始めました。

神がご自身のことを人間に語ることを「啓示」といいます。啓示は英語で、Revelationです。
人間の知性は有限なので無限の神を理解することは不可能です。教えてもらわない限り、神を知ることはできません。
神が明らかにされた内容は、①神とはどんな方か、②神は何を願っておられるのか、③神が人にして下さったことは何か、ということです。
神が私たちに何としても伝えたいという強い意思が、啓示に込められています。

「わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(エゼキエル38:23)

啓示には二つの種類があり、自然啓示と特別啓示といいます。自然啓示とは、自然や宇宙が神の偉大さを語っているという意味です。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇19:1)

グランドキャニオンやヨセミテ公園に行った人は、「凄い」意外の言葉が見つからないほど深い感銘を受けます。

特別啓示とは、聖書のことです。神の偉大さは自然啓示で分かりますが、神が愛であること、聖であること、真実であることは聖書から分かります。また、イスラエルの歴史を通して神がどんな方か分かり、主イエスの十字架の意味も聖書から分かります。



2、霊感

神ご自身がを総合プロデュースし、監修し、世に出した書物が聖書です。そのプロセス全体を聖書を「霊感」と呼んでいます。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(第2テモテ3:16)

私はわずか5年ですが、新聞、出版の仕事に携わりました。そこで気づいたことは、世の中の書物が必ず編集者の手を通って世に出ているということでした。小説でも、論文でも、雑誌でも、編集者が何度も読み直しています。誤字、表現の正確さ、論旨のねじれ、不快語の使用など様々な面からチェックし訂正しています。本によっては、編集者があらかじめ書き手にテーマを提示したり、アイデアを提供することもあり、映画で言えば、プロデューサーの役割を担う場合もあります。

神が伝えたい内容を監修し、聖書の書き手が正確に書き残せるように、神がそのプロセスすべてを守られるというのは当然のことです。
「霊感」は英語では、Inspiration。原語のギリシア語でθεόπνευστοςといいますが、 その単語は神と息で構成されており、神が人に息を吹きかけると人間に命が与えらたように(創世記2:7)、神が言葉に息を吹き入れたイメージが思い浮かびます。生きた言葉なのです。

聖書の書き手は、その時代に生きた弱さと長所を兼ね備えた人物たちです。稀有の指導者モーセ、純粋な信仰者でありながら罪に崩れ折れたダビデ王、異国で毅然と信仰を貫いたダニエル、主イエスを3度否んだペテロ、医者で知識人だったルカ、復活の主に出会った元パリサイ人のパウロなど個性豊かです。聖霊がこれら約40人の書き手を守り、導き、書き手の個性を最大限に生かしながら、神のメッセージを伝えたのです。
聖書は、約1600年間にわたり書き続けられました。このような本は歴史上に例がなく、世界のどこにも聖書と似ている書物はありません。時代も違い、場所も違い、著者が違うのに、中心テーマが統一されている奇跡と言える書物が聖書です。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(第2ペテロ1:21)

聖書が霊感を受けた特別な本だということを説明するには、聖書がどのように守られ、どのように伝えられてきたかを説明することが助けになるでしょう。
聖書のオリジナルが残っていないので内容が信頼できないと考える人います。それは、聖書がどのように伝えられてきたかを知らないから言えることなのです。
ユダヤ人は、聖書を大切に、また厳重な注意を持って書き伝えてきました。聖書を書き写す人はその道のプロにだけ許されていました。覚えている聖句も必ず見てから書くという規則がありました。書き終わったページは読み直し、アルファベットを数えます。創世記は、7万8064語あるので、最初から単語を数え正しく書けているかを確かめます。各書の真ん中のアルファベットを見つけ、その字に誤りがないかを確かめます。詩篇80:14にあるアインという字は、ヘブル語聖書では必ず少し浮き上がって書かれています。それは、詩篇全体の真ん中のアルファベットであることを示しています。もし、何らかの書き間違いが見つかったなら、必ず焼き捨てられます。

そのような手続きを経ていますから、1947年に発見された死海写本(BC2世紀~AD100年頃作成)の正確性に世界が驚嘆し、旧約聖書は正しく伝えられて来たと納得したのです。

新約聖書の正確性について次に触れましょう。古典と呼ばれる書物は、そのほとんどがオリジナルを失っています。今から約千年前に書かれた源氏物語もすべて写本でしか読むことができず、大きく分けると3つの系統があることが分かっています。清少納言(966年頃~1025年頃)は『枕草子』の中で、自分の物語がしばしば劣悪な形に改作される事を嘆いています。
ヨーロッパに目を向けると、シーザーの書いた『ガリア戦記』も原本が残っていませんが、私は岩波文庫で読むことができました。実は、その信頼できる写本は5つしかなく、オリジナルから約1000年たった写本が一番有力なのです。プラトンの書物に関しても同じことが言え書物によっては7つの写本しかなく、オリジナルからやはり1000年たったものです。
新約聖書は、紀元100年頃には書き終わっており、現存する『ジョン・ライランド写本』(AD125年)は、ヨハネの死後30年ごろのものです。新約聖書の写本の総数は5366もあります。

聖書は特別な書物だということは、その伝達方法からも言えるのです。


3、照明

「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」(使徒24:45)

この箇所は、復活された主イエスが、弟子たちの心を開き、聖書の意味がよく分かるようにされた場面の記述です。

一般人が読んでも分からないというのでは、神とのコミュニケーションが始まりません。私たちが聖書を読むとき、聖書の内容を正しく理解できるように神が助けて下さるのです。それを、神学用語で「照明」と言います。英語で、illuminationといいます。神は、人の心をひらき、神の言葉への興味を与え、聖書理解を助けて下さいます。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

神は、今も、私たちの心を開いて下さいます。だから、聖書は、神の助けを求めて祈ってから読みましょう。


4、伝えたい情熱をお持ちの神

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第2テモテ3:16)

聖書は、4つの実際的な効果を持っています。何が正しい事かを教え、してはならないことを明確に戒め、教えから逸脱した時には、本来あるべき場所に戻し、神の求める道を真っ直ぐに歩けるように鍛えてくれる書物です。

それで、聖書は、哲学の本よりも奥が深く、同時に、現実世界ですぐに役に立つ実用書でもあるのです。


神は、私たちにご自身を明らかにしたいという強い意思をお持ちです。それは、啓示、霊感、照明の3つの要素を考えるだけで分かります。神は自分から語られ、正確に伝わるように守り、理解できるように助ける方です。

以下は昔の教科書に載っていた「稲村の火」という文章の一部です。

「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。

これは、1854年(安政元年)12月23日、安政の東海地震(M8.4)が起きた時、現在の和歌山県広川町に住んでいた庄屋の濱口儀兵衛さんが自分の稲束に火を放ち、村人を津波から救おうとした実話です。何としても伝えたい時は、思いきった行動を取るものですね。

私たちの神の熱意に影響され、誰かに神の言葉を熱意を持って伝えられないでしょうか。
あなたが、文章を作る才能が与えられているならそれを用いましょう。ブログでも、フェイスブックでも、小説でも、文章にして神の言葉の素晴らしさを伝えましょう。聖書は神の言葉なので、そのまま聖句を紹介するだけでインパクトがあります。
絵が描ける人なら、あなたの絵に聖書の言葉を添えて誰かに渡しましょう。習字ができるなら色紙に聖句を書いて差し上げましょう。音楽ができるなら、神の言葉を歌にしましょう。料理が上手なら、誰かを呼んで食事して、さりげなく聖書を伝えましょう。


神は、何としても私たちに伝えたい事があるのです。それで、自然を通して語り、聖書を通して語り、正確に書き記せるように書き手を守り、私たちが読んで分かるように私たちの心を開いてくださる方なのです。聖書って思っていた以上に凄い本なのです。

→あなたの番です。
□神は私たちにぜひ伝えたいという熱意をお持ちです
□聖書を読むとき、まず祈って、理解の助けを求めよう
□聖書をあなたらしく伝える努力をしよう

詩篇119:105  聖書とは


これから4回シリーズで、聖書とは何かを考えていきます。第1回目の今日は、聖書とは何なのか、一言で言えば何なのか、というテーマを取り上げます。
今日は、詩篇119:105を取り上げます。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

1、神と言葉

まず、創世記の冒頭部分とヨハネの福音書1章の最初の部分を比べてみましょう。良く似ています。そこで言われていることは、神がおられる、神が言葉をお持ちだ、ということです。

初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ」すると光があった。 
(創世記1:1〜3 新改訳第3版)

はしめにあったのは神さまの思いだった。思いが神さまの胸にあった。その思いごそが神さまそのもの。はしめのはしめに神さまの胸のうつにあったもの。神さまの思いがこごって、あらゆるものが生まれ、それなしに生まれたものはひとつももねーぁ。神さまの思いにゃあらゆるものを生がす力があってぇ、それはまた生ぎる喜び人の世に輝かす光だった。光は人の世の闇照らしてだったのに、闇に住む人はそのことに気がつかねえでだったんだ。
(ヨハネの福音書1:1~5 ケセン語訳聖書 山浦玄嗣訳)

宇宙も地球も光も闇も時間もないとき、神だけがおられたのです。神がどんな方かは、神が語られる言葉によって分かります。光よあれと言われるだけで光が現れる。神は言葉に力のある存在です。

その人が言った言葉は、その人柄を表すものです。だから、その人が死んだ後は、その人の言葉が思い出されます。つまり、言葉はその人なのです。
「名誉などいらない、欲しいのはマグマのように噴出するエネルギーだ」と岡本太郎は言いました。太陽の塔を作った情熱的な芸術家らしいなと思います。
「試合で失敗したシュートは9000本、ウイニングシュートでミスして試合に負けたことが26回ある」と言い切れる人は、バスケットの超有名選手マイケル・ジョーダンです。

神とはどんな方か、神の語られた言葉を聞くときそれが分かります。

神は人間だけを神のかたちに似せて造り、人間に語りかけようとされました。神が持っておられた自意識、自由、考えること、善悪の判断、愛、コミュニケーション能力が人間に与えられたので、人は言葉を持つようになりました。それで私たちは言葉で自分を洞察し、言葉を操って自分を表現するようになりました。
私たちの言葉は、神と心を通わすために与えられたと言ってもよいのです。



2、心の耳を澄ます

神の言葉をどのように聴いたらよいのでしょう。そのヒントは申命記6:4の祈りにあります。この言葉は、ユダヤ人が一日に5回唱える祈りであり、ユダヤ人にとって最も大切な言葉です。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)

祈りとしてささげられる申命記6:4の言葉ですが、リクエストのリストのようなお願いの祈りとはかなり違います。聞けという命令文です。
私たちは、神が語っておられることを聞くことが一番必要なのです。神の語りかけを聴くことが、私たちに一番必要なことです。

だから、人はパンだけで生きるのではないのです。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きるものなのです。


3、神の言葉が足元を照らす

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
(詩篇119:105)

ところで、旧約聖書のヘブル語でダバールという単語があります。ダバールには、本来2つの意味があります。言葉という意味と、出来事という意味です。ユダヤ人は、当たり前のようにこの2つのことを一つの言葉で言い表しました。
神は、言葉としてのダバールで私たちに直接に語られます。また、私たちが経験する出来事によっても神は私たちに語りかけておられます。

詩篇119:105においても、「みことば」という単語がダバールです。ダバールが私たちの足もとを照らす光になると語っています。この箇所の光は、移動する光です。つまり、神との交わりが続く中で、神が光を照らし続けてくださるのです。これは神と共に歩む人生を示しています。

105節の前提は、私たちが暗闇にいるということです。あなたも今、暗闇にいますか。暗闇とは、先が見えない不安と孤独を意味します。

 1900年、34歳の日本人男性が文部省の勧めでイギリスに留学しました。東京帝大を卒業し英語を教えていた男性でしたが、ケンブリッジ大学から入学を拒否され、一人のイギリス人から個人教授を受ける以外は、大学にも、図書館にも行かず、何度も住まいを変え、最後には「猛烈な神経衰弱」と家主に言われ、1903年に日本に戻ります。現代的な視点でいえば、彼はカルチャーショックを受け、うつ状態になったということができるでしょう。彼の名は、夏目漱石です。

現代も漱石のようなカルチャーショックで暗闇に沈みこむ留学生や移住者が多くいます。語られた言葉が理解できない、自分の考えや感情を表現できない、孤独だ、悩みを誰にも分かってもらえない。そんな状態は、闇です。それと似たような困難な境遇にいる人もいるでしょう。

神は、あなたを立ち上がらせてくれる言葉を今も語っています。心の耳を傾けるなら、あなたへの愛のメッセージに気づくはずです。朝、神はあなたにもりもりとやる気を起こさせてくれます。神の言葉によって。

聖書とは何でしょう。それは、神がずっと私に語りかけているという証拠なのです。

聖書。神が生きておられる。神が語っておられる。聖書は、そのことをはっきりと示してくれるものです。あなたも、神の語りかけを聞き、元気になって下さい。


→あなたの番です。
□神はずっとあなたに語っています
□神の言葉と出来事を聴きとりましょう
□神のことば、光で足もとを照らしてもらいましょう

マルコ14:66~72 鶏が二度鳴く前に

   痛恨の失敗。それは、体も心も世間体も人生もバラバラにするほど辛いですが、最も大切な事柄を学べる宝のような体験にもなり得ます。
 今日は、ペテロが主イエスを3度否んだ場面を見ていきましょう。

1、一度目

ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。(66~68節)

女中はペテロをまじまじと見つめました。ペテロには、女中の鋭い視線が痛かったでしょう。女中は、「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」(67節)と言いました。それを聞いてペテロは、とぼけました。「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」(68節)

 「あのナザレ人」という言い方には、嘲笑、侮蔑の気持ちが込められています。現代風に言えば、まさか、あんたはクリスチャンじゃないよね。奇跡や復活なんて現代社会で信じているやつは、よっぽどの間抜けだな。そう誰かに言われて、自分がクリスチャンだと言えないなら、ペテロを笑えません。
 
 笑いものになるのが怖いので、自分の信仰をうやむやにする。それが、主イエスを否定するきっかけになります。

 クリスチャンで宮内庁の高官という方がおられました。皇室との関わり、神道の伝統、その中でクリスチャンとして歩むことはさぞ困難でしょうと問われると、彼はこう答えました。「そうです。中途半端なキリスト教では守っていくのは難しいです。でも、本当に熱心なキリスト教信仰ならば、貫くことは難しくはありません。」

キリスト者であるという旗印を鮮明に掲げましょう。


2、二度目

すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。(69~70節)

女中は近くの人に言わずにおられません。「この人はあの仲間です。」(69節)ペテロは再び打ち消しました。

 女中一人ならなんとかやり過ごせました。でも、複数の男たちが女の話を聞き始めたのでペテロは恐ろしくなりました。火に当たっていた人々は、主イエスをさげすむ人々だったので、ペテロは窮地に追いやられました。

私たちが主イエスを否定するようになる第二のきっかけは、自分が少数派になった時です。

 →「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)



3、三回目

しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。(70~71節)

女の話を聞いた複数の男たちが、ペテロの存在に気づきました。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」(71節)あなたはあの男といっしょにいた。間違いない。ガリラヤなまりの言葉が動かぬ証拠だ。

ヨハネの記述によると、ペテロに耳をそぎ落とされた人の親戚がそこにいたようです。(ヨハネ18:26)この場を収拾するには非常に強く否定するしかありません。リビングバイブルは71節をこう訳しています。「そんな男のことなんか、知るもんか。これがうそなら、どんなばちが当たってもかまわないぞ」のろいをかけるとは、そういうことです。

主イエスを否定する第三のきっかけは、自己保身です。



4、鶏の声

するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(72節)

ペテロは数時間前に何と言っていたか思い出しましょう。

すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29)
ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31)

ペテロはみごとに失敗しました。

大好きで、尊敬してやまない、どこまでもついて行きたい主イエスを、3度も否定したのです。あれだけ見栄を切ったのに、自分のふがいなさに激しく泣いたことでしょう。

ところで、4つの福音書の成り立ちは、マルコの福音書が最初に書かれ、それを参考にマタイやルカが独自の視点でまとめ、かなり時間がたった後それまでの福音書に取り上げられてない部分をヨハネが補ったと考えられます。4つの福音書全部が記録している部分は案外少なく、バプテスマのヨハネ、5000人の給食、ゲッセマネの祈りやピラトの裁判、主イエスの十字架などが共通する部分です。
それ以外では、ペテロのつまづきの予告とペテロが3度イエスを否むという箇所が福音書4つに共通している箇所なのです。主イエスの福音を記録するとき、ペテロの失敗はどうしても詳細に書かなければならない重大事項なのです。それは、ペテロの失敗が、ペテロ一人の失敗ではなく、弟子の誰にとっても身に覚えるのあることで、また、聖書を読む人すべてに当てはまる弱さだからです。
主イエスは、そんな弱さのあるペテロを見捨てず、赦し、愛し、励まし、再び立ち上がらせました。これこそ、福音が人を生かす実例なのです。主イエスが私たちに伝えたい大切なメッセージなのです。
あなたは弱い。そんなこと最初から分かっている。あなたを強くするのはわたしだ。名前の通りの「ペテロ=巌」にするのはわたしだ、と主イエスは言っておられるのです。

ある中学1年の男子は、夏に主イエスを自分の救い主として信じました。お母さんが筋金入りの気合の入った信仰者だったので、年末になると。「あんた、クリスチャンになったんやったら元旦礼拝やろ。お父さんと勝負してきいや」と言いました。それまでは、父親が長男を連れて初詣にお寺や神社に行くのが、その家のならわしでした。
「僕は、夏の教会のキャンプで、クリスチャンになる決心をしました。だから、悪いけど、明日はお寺でなくて、教会の礼拝に行きたいです。」「お前は俺が育てているんだ。成人したら何を選んでもええ。けど、今は俺の言うことを聞け」少年の目からぽろぽろ涙が出ました。主よ、何と言ったらいいのですかと祈りながら精一杯言いました。「僕は生まれて初めて自分で決めました。間違った信仰なら引きづり戻しても構わないけど、今僕が信じたこと、自分が決めたことを信頼してくれへんか」
お父さんは、しばらく黙りました。そして、「行ってええぞ」と言ってくれました。後で聞いたことによると、「あいつが本気で俺に勝負してきた。それが嬉しかった」とお父さんがお母さんに言ったそうです。

あなたも、本気で勝負しませんか。

→あなたの番です。
□笑われても、主のしもべとして生きていこう
□少数派になっても、主を愛していこう
□自分にマイナスになろうとも、誠実に生きよう
□主イエスは、弱い私を必ず立ち上がらせてくださる

「わたしは、あなたの信仰がなくらならいように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

マルコ14:53~65 主イエスの裁判

裁判とは、真実は何かを明らかにする場であるはずです。でも、主イエスの裁判はそうではありませんでした。

1、深夜の裁判 (53~59節)

大祭司の家で主イエスの裁判が行なわれました。大祭司カヤパのしゅうとアンナスによる予備的な取調べはすでにこのとき終了していました。(ヨハネ18:12~24)
ユダヤの最高決議機関、兼、裁判所をサンヘドリンがこの夜、臨時に召集されました。議員定数は70人、祭司や律法学者、長老たちが主な構成員で、議長は大祭司でした。ミシュナーのサンヘドリンに関する規定には、夜の裁判と大祭司の家で裁判は禁止されていました。大祭司たちは主イエスの支援者や群集による騒ぎを恐れ、死刑を急いだからでしょう。

ペテロは、一度は主イエスを見捨てて逃げましたが、ヨハネの道案内で(ヨハネ18:15)大祭司の庭に入って主イエスの様子を伺っていました。

この裁判は不当でした。なぜなら、判決が先に決まっていたからでした。「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。」(55節)

裁判とは名ばかりで、死刑という結論ありきで、理由付けの場に過ぎませんでした。多くの人が偽証し、主イエスは死刑に値すると語りましたが、辻褄が合いません。議員たちは知識階級なので、矛盾した理屈で判決を下すのには自尊心が許しませんでした。

ひどい裁判だと誰もが思います。でも、私たちも似たようなことをします。あの人が何となく嫌いだと結論を出してから、悪い理由をあげつらいます。
もう少し、公正な立場を取って、人と接してみませんか。



2、沈黙する勇気 (60節)

ひどい偽証が出てきても、どんなに自分が不利な立場に立たされても主イエスは一切口を開かず、弁明しようとしません。大祭司が何か話せと強く挑発しても主イエスは黙っておられました。
イザヤの預言の言葉を思い起こします。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)

ペテロが後に手紙を書いたとき、主イエスの沈黙に特に注目しています。
「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(第1ペテロ2:23)

沈黙には力があります。正しくさばかれる方にお任せしたときの沈黙はとても強いものです。悪の饒舌さは、正義の沈黙に勝てません。
あなたも、正しいからこそ、沈黙を守るときがあるかもしれません。



3、語る勇気 (61~65節)

そこで、大祭司は最後の切り札を使いました。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」(63節)

主イエスはこう答えました。
「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(62節)

「わたしは、それです」と訳されていますが、ギリシア語で ego eimi となっています。英語に直訳すれば、I amになります。この言い方は、出エジプトで神がご自身の名をモーセに教えたI am that I am(出エジプト3:13~14)と同じことになるので、大祭司は猛烈に怒ったのです。ありてある者、ご自分の存在が他に依存しないお方、それは神以外ほかにはおられないのです。主イエスはまことの神、まことの救い主です。ハレルヤ。
ステパノが殉教するとき、神の右の主イエスを見ていました。(使徒7:56)

主イエスは、どんなに自分に不利な状況でも、私だ、と言われました。それを言えば死刑だと分かっていても、はっきりと、私だと言われた方です。

1942年6月26日、横浜ホーリネス教会の菅野鋭牧師は治安維持法違反の容疑で逮捕され、厳しい取調べを受けました。聖書によればすべての人は罪人というが、相違ないか、との質問を受け、菅野先生は、相違ありませんと答えました。天皇陛下も罪人かとの問いに、一国民が陛下に関して云々することは畏れ多いことですが、陛下が人間であるならその通りです、と答えました。天皇陛下も主イエスの十字架による罪のあがないが必要かとの問いにも、その通りですこと答えました。
菅野牧師は1943年12月に獄死しました。肺結核でした。菅野先生は、主イエスの後に従う誠実な信仰者だったといえます。

主イエスは、裁判で真実を言う勇気をお持ちでした。その答えが何を意味するか十分覚悟の上での発言でした。十字架の道をまっすぐに進む覚悟でした。


大祭司は、主イエスの答えを聞いてそれ見たことかと大げさに自分の着物を引き裂き、冒涜罪での死刑を議場に求めました。自分を神の子と言ったぞ。メシヤと表明したぞ。父なる神と自分を同格に置き、神の右に座すと言った。雲に乗って来るとまで言った。これは、明らかに冒涜だ。死刑に値する。
議員たちは、無批判に大祭司に同調し、死刑を決めました。その場にいた人々は主イエスに暴力を振るい、主イエスをはずかしめました。

そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当てて見ろ。」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。(マルコ14:65)

弱い者を標的にしていじめるのは子供ばかりではありません。私たち大人も、寄らば大樹の陰とばかりに、多数派に寄りかかり弱者を苦しめることがあります。
主イエスを辱めた人々は、実は私たちの姿です。卑怯ないじめをしてきた私たちの罪をゆるすために、主イエスはその罰を受け、いじめられる者の一人となられたと考えることもできます。


→さあ、あなたの番です。
□時を見極め、勇気ある沈黙を選ぶ
□胸を張ってキリストをあかしする
 □いじめに加担せず、先入観から離れて人と接する



マルコ14:51~52  ある青年の記録

1、ある青年がしたこと

ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(マルコ14:51~52)

 主イエスがゲッセマネの園で逮捕された時、十二弟子は蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。主イエスが大祭司のところに連れて行かれる途中、一人の青年がその後をつけました。周囲の人は、この青年も主イエスの仲間だと気づき捕らえようとしました。身の危険を感じた青年は駆け出しましたが、身に付けていた亜麻布が邪魔になり、それを脱ぎ捨てて裸になって逃げたのです。

 それだけの出来事です。実に唐突に書かれています。他の福音書には見当たらないマルコ独自の記録です。


2、記録に残った謎

 さて、この青年は誰なのでしょう。そして、この短い記述は福音書に記録するだけの値打ちがあるのでしょうか。

 「イエスについて行ったところ」(51節)と書いてあるので、主イエスを信じ尊敬していた事に間違いはありません。けれども初心貫徹はなりませんでした。
この青年を笑いの種にする目的で書いたのでしょうか。あり得ません。主イエスのもとから逃げ出した十二弟子は例外なく全員がみっともなかったはずです。


この出来事の性質上、自分から打ち明けなければ誰にも知られない話です。青年が自分からこの話をしたとしか思えません。
また、この人物を匿名にしたいなら「ある人物」と書けばよいのですが、「青年」と書きました。かえってその人物が誰なのか絞り込めるようにしています。匿名にしながら、むしろ素性を明らかにしているという両面性があります。
 
 そこで、この青年が誰か、一番の可能性は、著者のマルコ自身になります。マルコの住まいがエルサレムにあったこと。(使徒12:12、1:13~15、「二階の広間」マルコ14:15)青年だったこと。マルコの福音書が最初に書かれたのに、他の福音書がこの記事をあえて省いたこと。この出来事が唐突なこと。それらが、青年がマルコであったという高い蓋然性を示しています。


3、マルコの心

 この記事が書かれた理由は推測するしかありまえん。ただ、はっきり言えることは、マルコがこの記事を書かねばならないと思っていたことです。

 青年の行動は、誰に迷惑をかけたわけではない。誰かが傷ついたわけでもない。でも、青年は知っています。私は、主イエスを見捨ててしまった。最後まで主イエスについて行くことができなかった。後悔とみじめさ、自責の念。それらが、この数行に凝縮されています。

 マルコは自分の汚点をしっかりと記録に残したかったのでしょう。誰から言われたわけでもなく、自発的に書きました。自分の失敗を認める自発性。それは尊い、勇気ある行為です。
 マルコは、言い訳を一つも書いていない。事実だけを書いた。それが悔い改めの原点です。逃げ出した事実を書いただけですが、このみじめな事実を書けること自体が、この失敗を乗り越えているという印です。

 オランダ人の画家、レンブラントも同じようなことをしました。十字架に掛かる主イエスの絵の下のほうに、時代考証に反したベレー帽の男を描いています。主イエスを十字架にかけたのは私だと言いたいのでしょう。映画「パッション」を監督したネル・ギブソンも、手のひらに釘を打つ場面で自分の手を大写しにして使いました。それも同じ意味です。
 パウロも、「私はその罪人のかしらです」(第1テモテ1:15)と言い切りました。

 あなたにもあるはずです。裸で逃げた夜が。みっともない失敗のこと。主イエスを裏切るような行動があったはずです。

マルコは、「ある青年」の出来事をまるで暗号のようにして聖書に記録しました。同じ経験をした人にだけ分かる暗号です。
主イエスは、「裸で逃げた経験」を用いて、あなたをきよめ、あなたを愛のある人にし、謙遜にさせてくれるとマルコは言いたいのでしょう。

あなたや私のみっともない事柄を全部公にしなさいなどとは言っていません。そういう経験を暗闇に葬るのでなく、大切に取り扱いましょう。「裸で逃げた経験」は主イエスの愛とあわれみを体験するための注ぎ口になります。裸で逃げた経験が大きければ大きいほど、主の愛を受ける注ぎ口は広くなります。だから、大切にしましょう。うなだれても、胸をたたいて、主イエスのもとに行きましょう。主イエスも、あなたが裸で逃げた経験を知っていても、あなたを見捨てることはありません。

「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)


 あなたの番です。
 □あなたにとって「裸で逃げた経験」とは何ですか。
 □「裸で逃げた経験」を見つめ、主イエスの愛を味わいましょう。